戦場カメラマンの苦悩と孤独 ④ プロカメラマンとしての使命
内戦の続くスーダンで起きた飢饉の中で、痩せ衰えてうずくまる子どもを撮影した写真。
その後ろではハゲワシが子どもの方を向いて映っており、
この子どもが死ぬのを虎視眈々と待っているように見える。
カーターが訪れた国連施設のある村では、
毎日20人前後の子どもが死んでいたと言われています。
カーターは国連の食糧配給センターの近くを歩いていて、
うずくまる子どもとハゲワシを見つけ、思わず構えてこの写真を撮った。
写真を掲載したニューヨーク・タイムズは次のようなキャプションをつけていた。
『先日アヨッドの食料配布センターへの道において撮影された、
飢餓により衰弱してうずくまった幼い少女。すぐ近くでハゲワシが待ち受けている』
前回は、『ハゲワシと少女』(カーターはこの写真でピュリッツァー賞を受賞)の写真を見た人々の反応を中心に考えてみました。
更に、一歩進めて「あなたが戦場カメラマンだったらどのような行動を取るでしょう」と「職業倫理と命」ということについて考えてみました。
さて、今回は実際に戦場カメラマンとして活躍しているプロの戦場カメラマンに焦点を当ててみました。
戦場カメラマン渡部陽一の場合
(渡部陽一オフィシャルブログより)
これまでの主な取材地は、イラク戦争米軍従軍記者、ルワンダ内戦、コソボ紛争、チェチェン紛争、ソマリア内戦、アフガニスタン紛争、スーダン、パレスチナ紛争など、学生時代から世界の紛争地を専門に取材を続けている。
戦場の悲劇、そこで暮らす人々の生きた声に耳を傾け、
極限の状況に立たされる家族の絆を見据える。
戦場カメラマン渡部陽一が取材に入る紛争地で、
命の危険にさらされながら切り取った被写体は、
まぎれもなく渡部陽一が見て、感じた写真である。
私たちが見ているのは、
被写体に焼き付けられた彼の個性を見ていることになる。
彼の目を通して切り取った、「渡部陽一の戦場」なのだ。
被写体に向けて切るシャッターは、
誰が撮っても同じような写真しか撮れなければ、血の通った写真は撮れなくなってしまう。
写真は無機質で感動のない写真になってしまう。
被写体を見つめるカメラマン一人一人の個性が、被写体をとらえなければならない処に
戦場カメラマンとしての個性があるように思う。
流された血に、
破壊された建物に、
泣き叫ぶ子どもたちに、
重銃機関銃で藪にひそんで対岸を見つめる兵士に、
どのような物語があるのか、
写真のなかに表現できなければ
写真家の資格はない。
だから彼は、自身のプロフィールの最後に
「戦場の悲劇、そこで暮らす人々の生きた声に耳を傾け、
極限の状況に立たされる家族の絆を見据える」
と書いて、自分の立ち位置を表明したのでしょう。
悲劇の物語を、
そこで暮らす人々の生きた声を
家族の絆を
被写体の中に表現しようとする。
これが戦場カメラマン・渡部陽一が見た戦場である。(写真・オフィシャルブログから引用)。
硝煙の匂いも、血の匂いもしない、命の危険も感じられない。
あるのは、横たわる子どもを覆っている戦場に漂う、倦怠感だ。
だが、寝ている子供の脇には機関銃がなにげなく置かれている。
「これが子どもたちを被う日常なのだ」機関銃を画面に入れることによって、
命の危険が子どもたちを覆い、シャッターを切ったその後に敵方の銃撃が
子どもたちの命を奪う危険が潜んでいることを渡部陽一はレンズを通して切り取っている。
地面に投げ出された薄いシートは貧困の象徴であり、
画面右端に少しだけ見えるアルマイトのような容器は、
食事用のナベか、洗濯のタライなのか。
戦場と日常が同居している危険地帯であることを写真は表現している。
渡部陽一の 戦場カメラマンとしての立ち位置が、ぼんやりと理解できたので、
次は「命の危険にさらされる戦場に駆り立てるものは何か」という問題を見てみたい。
(つづく)
(つれづれに……心もよう№127) (2020.02.19記)
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