雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

幸せと不幸せ (2) 小林一茶の場合

2016-01-10 14:53:22 | つれづれに……

幸せと不幸せ (2)  つれずれに……  心もよう №22

  小林一茶の場合

  めでたさも中ぐらいなりおらが春  小林一茶

   一茶、57歳の時の雪深い信濃の正月に詠んだ句です。

  生母は3歳で死別。一茶の不遇はここから始まる。

一茶8歳の時に継母が来たが、継母と合わず15歳の時江戸に奉公に出される。

俳人となった一茶は、39歳で故郷に帰ってくるが、まもなく実父が帰らぬと人となり、一茶は再び旅に出る。

51歳で信濃に帰郷し、継母との遺産相続係争に決着をつけ、親子ほどの歳の差がある妻をめとる。

人生の遅い春がやっと巡ってきたかに見える正月だった。

だが、一茶の不遇は生涯続く。三男一女は次々に夭逝、その妻も病死してしまう。

生涯三人の妻を看取るが、いずれも「幸せ」とはいえなかった。

 後年芭蕉と蕪村と並び三大俳人と称された一茶は、

俳壇での名声を得ていたと思われるが、俳句からは、人生における成功や幸せの気配はうかがえない。

生涯、家族に恵まれなかった一茶だつた。

 そんな一茶が、57歳の春に詠んだ句。

「おめでたい正月ではあるが、私にとってはなんとなく、もやもやとして先の見通せない春(正月)だなぁ」。

不安定な心境を一茶はこう詠んだ。

現代では、「私の正月は、何事もなく、まあまあの正月かなぁ」という意味に取られているようです。

 

  ともかくもあなた任せの年の暮れ

 

 同じく一茶の句だが、句集の最初の句が、「めでたさも…」であり、最後の句が「ともかくも…」です。

「あなた」とは阿弥陀如来様のことだと解釈されています。

生涯家庭的には不遇であった一茶。

「なにがあっても、あなた(阿弥陀様)のお導きの通りにと過ごしてきたとしのくれだなぁ」という意味なのでしょうか。

 

 少し横道にそれてしまいましたが、

幸せの反対は不幸ではない。

人生には、右か左か、勝か負けか、幸か不幸かというような二者択一の選択を迫られる場面は少ない。

幸せではないが不幸ではない。このグレーゾーンが大切だと思う。

「中ぐらいなり」の状態を大切にしたいですね。

 「欲」にとらわれてしまうと、きりがありません。

 「金欲」「物欲」「独占欲」「我欲」に惑わされれば、人生そのものの歯車が狂ってしまいます。

 欲に惑わされてしまえば、「幸せ」は遠ざかっていきます。

 「無病息災」と言ってしまえば、味も素っ気もありませんが、

 「無病息災」のありがたみを知ることが幸せに繋がっていくのではないだろうか。

                                  (2016.01.10記)

 

 

 

 

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幸せと不幸せ

2016-01-07 15:22:22 | つれづれに……

幸せと不幸せ (1)    つれずれに……(こころもよう №21)

 「幸せになりたい」。

誰もが抱く願いである。

 

しかし、これほどとらえどころのない概念はない。

「幸せとは何だ」と自分に問いかけてみても、具体的な答えは返ってこない。

「あなたは自分を幸せと思うか、それとも不幸せと思うか」というようなアンケートがあっても、

答えることができない。

 また、自分の歩んできた道を振り返って、「不幸せ」だったと答える人も少ない。

 

 「幸せ」ばかりのおめでたい人生はないし、

 「不幸」ばかりの辛い人生もない。

 

 幸、不幸はその人の「生き方」や「考え方」によって大きく違ってくる。

 ある人にとって「幸せ」と思えるような出来事であっても、

 ある人にとっては取るに足らない出来事と思える様なことがある。

 

 友がみな我よりえらく見ゆる日よ 花を買ひきて 妻としたしむ ………… 石川啄木

 明治43年、東京朝日新聞社の校正係として働いていた啄木24歳の時の歌です。仲間たちが日の当たる道を歩んでいるのに、自分はこんな処でくすぶっている。やりきれない思いが歌になりました。苦楽を共にする妻が待つ家に帰り、買ってきた花をちゃぶ台に飾る。小さい花瓶に生けられた花だけれど、妻と二人の夕餉の前のひとときを啄木は心癒される思いで花を見つめたのでしょう。

 決して高価な花ではないけれど、啄木は花に明日の自分を重ね、

日の当たる文学への道を夢見、同じ思いを妻と分かち合ったのかもしれない。

 「心を許せる妻がいる」という何気ない日常の中に啄木は、ささやかな安堵と幸せを感じたのでしょう。

               (2016.01.07記)    (つづく) 

 

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道祖神のほほえみ

2016-01-03 19:09:31 | 翔の哀歌

 翔太郎哀歌(15)

  道祖神のほほえみ

 例年になく穏やかで暖かい正月です

 

 

 孫が14歳の暮れに早逝してから、3度目の正月を迎えることになりました。

元気でいれば今年の春は高校3年生です。

一年目の正月は外出もせず家の中にこもったままの哀しい正月でした。

2年目の正月は少しだけ元気になり、賀状をいただいた人に「寒中見舞い」という形でお礼を申し上げました。

 

 

 3年目の今年、彼が元気だったころの写真の中から、

安曇野の道祖神の写真を見つけ、

はがきに刷り込むことにしました。

 

春の柔らかな木漏れ日の光を浴びて肩を寄せ合う三人の姿がほほえましく優しく思えたからです。

少し首を傾げた優しい両親に囲まれ幸せそうに微笑んでいる孫の姿が思い出に重なります。

合掌した手のひらに、どんな思いが込められているのでしょうか。

 

 老妻と二人静かで暖かい正月を迎えられたことに感謝です……

 

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