2019年の1月3日は、久々の青空が顔を見せた清々しい一日だった。
夕方まで概ね晴天が続きよく乾いた洗濯物を取り込んで、夕食の支度をした。
洗濯物も良く乾いていて、夕食は準備に手抜きの出来る焼き肉を選定。
いい気になってビールなどを飲んでいて、確か缶ビールを3人で4~5本空けた頃だった。
突然「緊急地震速報」と同時に家が揺れ始めた。
揺れた時間は短かったし、揺れの程度は体感で震度3~4程度だと思った。
震度については、熊本地震で震度7を2回、震度6弱や5強は10回以上、4程度は約2ヶ月ほど続いたので、目眩のように体が揺れる地震酔いの状態が暫く続くほどたっぷり経験させてもらったので、体が震度を覚えている。
熊本地方とくに熊本市や益城町は、半年前の発表では今後30年間に震度6弱以上の地震の起きる確率は26%以上と高確率になっていた。
今回の震源地は約20キロ以上離れた、江田船山古墳などで有名な和水町であり、熊本地震の余震ではないという話だ。
まったく確率の対象にもなっていない場所で地震は起きた。
私がつらつら出来の良くない頭で考えたのは、確率ということと活断層ということである。
東海地震が叫ばれてからもう半世紀以上が過ぎている。
東日本大震災以降は、東南海地震に連動する以外には想定しにくくなったとある。
地震学でいうところの確率の問題は、想定の基礎になっているものの設定の仕方で変わってしまうのだ。
熊本地震の後、各所で実際のボーリング等による地質調査が行われた。
(布田川断層と日奈久断層)
当初の震度7は日奈久断層の益城寄りの部分の横ズレによる。
二度目の震度7は布田川断層の益城直近の部分のズレによるものと発表されている。
(地震後に益城町の直下にあると推定された断層3本)
これは布田川断層が益城町の東部で分岐して、川の支流のように3本に別れ県道を中心に西進している断層。
(我が町の中心部の断層)
大まかな新聞発表図だったので、地図上に私が勝手に展開した図面である。
途切れているのは、まだ現在調査中であると記されていた。
その後調査が進み、最近の国土地理院が実測データとして公表しているものを見ると半端ない。
断層の線が途切れていたり、空白があってその先にまた線が続いていたりするのを見ると、その空白部分を繋いでみたくなるのが人情だ。
どこかの大学の断層に詳しい先生が言うには、断層はホウキの先のように逐次細かく枝分かれして行くそうである。
益城で枝分かれした3本は熊本市東部で北に方向を変えている。
立田山断層というのが熊本市を南北に走っているが、その断層の東側を北に伸びているのである。
立田山断層といい、布田川断層の分岐から北進する断層といい一般方向は今回の地震を起こした県の北部を向いている。
震度4~5の観測点を結ぶと不明瞭ではあるが一定の線が見えてくる。
熊本地震の際も、やはり被害の大きかった地域や建物は、それらを結んだ線上に多く、断層のながれに沿っていた。
これは被害の大きかった地域を調査した結果判ったもので、そもそも益城町直下の3本の断層も地震後に発見されたものである。
本来の布田川断層は、町の2キロくらい南の山沿いを走っている。
今回のような確率の低い地域での地震に遭遇すると、確率は安心材料では無いというのと活断層はどこを走っているかよく判っていないということが言えると思う。
地震の専門家というのは、地震後は沢山登場させられるが、地震前にはほぼひっそりとデーターなどを整理していればいいという扱いで、あまり出てくると町の発展を阻害する等と言われかねないものである。
復旧作業に余念が無い傍らで、全体が地盤沈下したあおりでそこだけが取り残されて30センチ以上も飛び出したままのマンホールが今も地震の様相を我々に伝えている。
小さな震災遺産は、まだ目の前にある。
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夕方まで概ね晴天が続きよく乾いた洗濯物を取り込んで、夕食の支度をした。
洗濯物も良く乾いていて、夕食は準備に手抜きの出来る焼き肉を選定。
いい気になってビールなどを飲んでいて、確か缶ビールを3人で4~5本空けた頃だった。
突然「緊急地震速報」と同時に家が揺れ始めた。
揺れた時間は短かったし、揺れの程度は体感で震度3~4程度だと思った。
震度については、熊本地震で震度7を2回、震度6弱や5強は10回以上、4程度は約2ヶ月ほど続いたので、目眩のように体が揺れる地震酔いの状態が暫く続くほどたっぷり経験させてもらったので、体が震度を覚えている。
熊本地方とくに熊本市や益城町は、半年前の発表では今後30年間に震度6弱以上の地震の起きる確率は26%以上と高確率になっていた。
今回の震源地は約20キロ以上離れた、江田船山古墳などで有名な和水町であり、熊本地震の余震ではないという話だ。
まったく確率の対象にもなっていない場所で地震は起きた。
私がつらつら出来の良くない頭で考えたのは、確率ということと活断層ということである。
東海地震が叫ばれてからもう半世紀以上が過ぎている。
東日本大震災以降は、東南海地震に連動する以外には想定しにくくなったとある。
地震学でいうところの確率の問題は、想定の基礎になっているものの設定の仕方で変わってしまうのだ。
熊本地震の後、各所で実際のボーリング等による地質調査が行われた。
(布田川断層と日奈久断層)
当初の震度7は日奈久断層の益城寄りの部分の横ズレによる。
二度目の震度7は布田川断層の益城直近の部分のズレによるものと発表されている。
(地震後に益城町の直下にあると推定された断層3本)
これは布田川断層が益城町の東部で分岐して、川の支流のように3本に別れ県道を中心に西進している断層。
(我が町の中心部の断層)
大まかな新聞発表図だったので、地図上に私が勝手に展開した図面である。
途切れているのは、まだ現在調査中であると記されていた。
その後調査が進み、最近の国土地理院が実測データとして公表しているものを見ると半端ない。
断層の線が途切れていたり、空白があってその先にまた線が続いていたりするのを見ると、その空白部分を繋いでみたくなるのが人情だ。
どこかの大学の断層に詳しい先生が言うには、断層はホウキの先のように逐次細かく枝分かれして行くそうである。
益城で枝分かれした3本は熊本市東部で北に方向を変えている。
立田山断層というのが熊本市を南北に走っているが、その断層の東側を北に伸びているのである。
立田山断層といい、布田川断層の分岐から北進する断層といい一般方向は今回の地震を起こした県の北部を向いている。
震度4~5の観測点を結ぶと不明瞭ではあるが一定の線が見えてくる。
熊本地震の際も、やはり被害の大きかった地域や建物は、それらを結んだ線上に多く、断層のながれに沿っていた。
これは被害の大きかった地域を調査した結果判ったもので、そもそも益城町直下の3本の断層も地震後に発見されたものである。
本来の布田川断層は、町の2キロくらい南の山沿いを走っている。
今回のような確率の低い地域での地震に遭遇すると、確率は安心材料では無いというのと活断層はどこを走っているかよく判っていないということが言えると思う。
地震の専門家というのは、地震後は沢山登場させられるが、地震前にはほぼひっそりとデーターなどを整理していればいいという扱いで、あまり出てくると町の発展を阻害する等と言われかねないものである。
復旧作業に余念が無い傍らで、全体が地盤沈下したあおりでそこだけが取り残されて30センチ以上も飛び出したままのマンホールが今も地震の様相を我々に伝えている。
小さな震災遺産は、まだ目の前にある。
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