人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

生活と一枚の祈りと瞑想

2025-02-26 04:20:02 | 祈りと瞑想
私は常々祈りと瞑想は分けることは出来ない、ということを言っています。
あくまで私が理解している限りでの祈り、瞑想のことなのですが...
瞑想というと、一般には一定の座り方や呼吸法やあるイメージを思い浮かべたり、チャクラに精神を集中したりなどの行法を伴うものという風に理解されているようです。
そのように、自力的な意志努力に依らなければならないのだ、と。
こういうものが瞑想なら、マントラを称えるやり方などはともかく、別段祈りとつながるということも無いでしょう。
しかし、私は一度もそういう瞑想に依って、瞑想の深まった境地とされるサマーディ(三昧)と言われる意識状態に導かれたことは無いのです。
ましてや、神的なものが臨んで来る、臨在感に与ることなどとてもありそうにないように感じてしまいます。(ちなみに、このサマーディと現臨感とは通じるものがあります)
というよりも、そもそもが意識がそういう自力的な瞑想行には向いて行きません。現実には“やれ“、と言われても困難なのです。(無理してやったら先の幸福なことに与れなくなるのは必定でしょう)
だから、自然と意識が向いてしまうようなことに導かれてしまうのです。
勿論、取っ掛かりとしてそのように意志するということはあるのですが、すぐに自然と神的なものの臨在を覚え始めるのです。(現実にそうなってみて感じるには、やっぱりこれもある種のサマーディではないかと思うんですけども...)
これが思いを超えたものに依り、それから離れられる、超えられる状態と言ってもいいのです。
そしてこれが、先の分けることの出来ない祈りと瞑想のすべてなのです。
それだけか?...と思う人は、思いを超えた意識領域とつながることが、どういうことかが分かっていないのです。
私はこのように普通の瞑想行とはほとんど縁が無いので、こんなこと言うのもオカシイようですが、瞑想ではサマーディの境地を目指したりするのでしょう?
しかし、思い、為そうとする自分から思いを超えた境地を目指すというのも、オカシイことですね?
別にそういう境地を目指している訳でもなく、自然とそうなってしまうのですけど...
これは、やっぱりその超えたものを頂いている...だから祈りと分けることは出来ないのです。
分けられないですね、これは!...
寝て、起きた時などは特に分けられないものを感じてなりません。
意識的になろうとしなくても、現臨の、サマーディの状態になっていることが多々あります。
そう、それは生活と分けられなくなってしまったようなのです!
自分の本来的な在り方は、生活と一枚にならざるを得ないということなのでしょう!...
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主一無適

2025-02-19 06:55:42 | 祈りと瞑想
祈る、瞑想してみる...
自分を超えた神、あるいは内なるものに意識を向ける...
否、そう意志想念で向けようとしなくても、自ずと向いてしまう...
自ずとある中心へと意識が集められる...
自ずと意識が統一、帰一されてゆく...

このようにごく単純に祈り、瞑想に向かう意識状態は、一つ、一なるものとならざるを得ないものです。
純粋な、何も付け足さない祈り、瞑想であるならば!...
ただ自分の思い、力を超えたもの、あるいは一コの考える自分に元々内在している、本来の自己、真我につながるだけの祈り、瞑想...実にそれだけのものがそのすべてのものということが分かるでしょう。
然るに、世の中で祈り、瞑想と称しているものの多くには、何故諸々の雑多なものをそれに付け加えるものが存在しているのでしょうか?
ことに瞑想に関して、足をどう組む、どう印を組むか、呼吸は何回行うか、何の神、どの神をイメージするのか、神名のマントラを何回称えるのか、どのチャクラに精神を集中するのか?
どの神、何段階かありそうな内のどの自分に心を集中するのか...
こんなややこしくては、意識の統一、帰一は困難になるだけで、むしろ分裂するだけではありませんか?
それに、神には善神、悪神が居る、神を超えた境地を目指さなければならない、というような意識がここに落ち着くこと無く、あちこちに浮遊してゆくような、面妖な教説がそれに拍車をかけてゆく...
いや全く、ナンセンスなことではありませんか?
瞑想したばかりに偏向、分裂した、精神的にも肉体的にもバランスを欠いた、“ヘンな人間“になってしまうのですよ!
祈りに関して、神社でも寺でも、主神、本尊というものが祀られているものです。摂社や末社はともかく、本社には一つの主神が祀られているのです。
二神では無く一神です。二神では二心になるだけですよ。
祈るということも瞑想と同じことで意識が一つになることです。
統一...これは、先の通り自分の思いで、二つのものを一つに統一するのでは無くて、二つのものが自ずと一つになるようなことです。神が統(す)べる、すべてのものと言えるでしょう。
神を意識すればそうならざるを得ない...内在する自己、真我(主人公)でも同じことであるのは言うまでもありません。
神は一つ、主は一つ、自己実存は一つ...だから、祈り、瞑想は“主一無適“でなければならないのです。
何年、何十年祈りや瞑想していても一向に進展が見られないのは、それに純一、主一にならないことにその要因があるのではありませんか?
自分の思いを超えたもの、内在しているものを頂き、ゆだねる...自然に思いは超えられ、本心が開かれるように導かれるのではないでしょうか?
それを自ら進んで、雑多な、統一、帰一に導かれないものに、心を許してしまう向きなどは何をか言わんやではありませんか?!...




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わが主に凝縮されるもの

2025-01-28 04:25:23 | 祈りと瞑想
朝目覚めた時など、よく自然と祈りとも瞑想ともつかないようなことに導かれるのですが、それには僅かに意識が向く、向けられるということがあるだけで、通常祈りとして理解されている形というものはありません。
従って、キリスト教のイエス.キリストとか、浄土系仏教の阿弥陀如来といった特別な帰依対象というものも無いのです。
それでも強いてそれを表すとしたら、(それだけだと何を書いているのか分からないだろうから、読み手を意識して)“わが主“ということになるでしょう?
“そうか、キリスト者なんじゃん?“、って思われるかもしれませんが、それはそっちでは、“主キリスト“という呼び名が慣用化されているだけなのであって、どの宗教でも“わが主なるもの“の響きというものは頂いているのではないでしょうか?
何度か言っているように、それは一コの私を超えた、見えない領域を含めたすべての私のことをその一語で言い表しているのです。
これは、ちょっと前にも書いたように、私にはわが主キリストという呼び名でも、自分を超えたものであると同時に本当の自分自身でもあるという、そういう響きは感じられて来ます。
又、仏教のブッダとは、阿弥陀仏のような帰依対象にとどまらず、内在のブッダ、“仏性“という意義も含まれているものであり、これもわが主の内実を伝えるものと言えるでしょう。
つまり、キリスト(性)、ブッダ(性)というものは、意識の在り方次第(観念的に信じるだけで無く)では、それ自体が超越的な神的なものと、内在的な真我的なものを一つに、直接的に自己に開かれるものなのです。勿論、こういう例は他にも多数あることでしょう。(私の場合、朝の目覚めの時など、そういうことが身に覚えられているので、特定の名を用いる必要が無い、ということなのです)
この点、イスラムではどうなのか?...預言者ムハマッドというイエス、ブッダと並び称される聖者は、“わが主ムハマッド“という風に先の、神と真我が一つになるように、祈り、瞑想の場で呼び慣らされている例はあまり聞きません。
預言者ムハマッドは、唯一神アッラーを取り次ぐ存在であり、そこで神との関係は二段になってしまいます。又、前回にも書いたように、唯一全能の神というのは、抽象的で捉えどころが無く、直接自己実存につながって来ません。
もっとも、これはあくまで概念的な説明をしたまでで、あらゆる霊性の道、神秘道においては、そういう言葉を超えて、イスラムでしたらムハマッドに、アッラーに“わが主“が重ねられるという例もきっとあることでしょう。
このように、“わが主“という一語には、一元も二元も超えた、あらゆる霊性の道が凝縮されていると言っても過言ではないのです。
それが祈りに結びつけば、神との人格的関わりと言われるような性質のものに導かれるのが自然でしょう。
しかしそれは、字義通りの意味を超えて、他人事でない、神と自己との直なる関わりとなることを言い表しているのは言うまでもありません。
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唯一無二の、普遍的な道

2025-01-12 07:15:13 | 祈りと瞑想
ラマナ.マハルシは、真我に目覚める方法として、“私は誰か?“と自分に尋ねてゆく、というジニャーニ.ヨガ(知識の道)に通じるような瞑想を伝えていたことはよく知られています。
これは、以前にも書いたように、私にはどうしても馴染むことは出来なかったのでした。
私は誰かと尋ねるのは、言うまでもなく考える私、自我です。
普通は、“私は肉体ではない、考える、思考と同一化した私ではない“、と否定してゆくような在り様になるものですが、どうしても“そう尋ねている私が居座り続ける感じがしてしまうのです。中々思いを超えたものが通る、それに開かれる感じにならないのです。
それが直接的な方法であると言うが、私にはそれほど直接的には感じません。
ラマナは、もう一つその自分を神的なものにゆだね、明け渡してゆく、バクティヨガ(帰依の道)のような方法を奨励していたのですが、これは普通に祈り、全託の道そのものと言ってもよく、すんなり入ってゆけるのです。
しかし、どうしても私には、ラマナが先のそういう意志想念を用いる方法を説いていたようには思えないのでした。
そこに、電撃的に突如あることが閃いたのは、ようやく二年ちょっと前のことです。
それは、ついこないだのように、風邪をこじらせたのが原因からか、あの神的な現臨が感じられなくなった時で、私はただ祈り、待ち望むしかなかったのでしたが、その回路が再び開かれ、臨んだと同時にそれは感得されたのです。
それは、神的なものに意識が向けられることと同じように、私自身に、“私は在る“ことに意識が向けられたということに他なりません。
考えている私、意志想念に頼る私は、ほんの端緒となるだけで、直ちに超えられてしまうのです。これは、直接的でなくてなんであろう!...
もはや、そこにはジニャーニ.ヨガとバクティ.ヨガの二つは無い!...否、こちらがやろうとする方法というものも本当は無いのではないか?
そして、神的なものと真我的なものは、切り離されるものでは無いということがハッキリ示されたのです。
ラマナは、おそらく彼のもとに訪ねて来る多くのヨガの修行者に譲歩して、彼らに馴染みのある、その二つのヨガの方法に則った道を説いていたのでしょう。
その根本には、思いを超えた、無為的なハタラキがあるということなのです。
“私は誰か“、と自我の私が自分に尋ねてゆく、というよりも“私は在る“というその状態に意識を向けてみるのです。
すると、私は一コの私では無く、“私を超えたものによって在らしめられている“ことが直感されるはずです。それは、神に意識を向けられることにより、自己実存が直感されることと一つ、ということなのです。
どうか、このことは言葉、概念のみで理解しようとしないで下さい!
神、真我に目覚める瞑想、祈りのことを言っているのですから!
いや、だから瞑想も祈りも分けられないものなのでした。
これはね、私が現臨感を失った時に私が独自に開発した、唯一無二のメソッドなんですよ!...って、そんなことある訳無い!
古今東西のあらゆる霊性の道において、普段は表側に隠れ、ある時に裏側から突如顕わになる普遍的な道に違いありません!
普遍的なものこそが唯一無二のものなんです!...


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祈りは通ってゆく

2025-01-05 04:45:35 | 祈りと瞑想
とにかく祈ろう...
と、こう書いてみたら、ピシッと自分を超えた力に後押しされるようになる...
何か通路のようなものが出来て、それが通るようになる...
自分の思い、力を超えている...
ということは、これは自分のことだけに留まってなどない!
自分を超えてゆくことは、自他を超えているということ!
その力はどこに行くのかは分からないが...
通り、広がってゆく...
それを意図して祈る訳ではなく、自ずとそうなる...
自ずと願いとなる...
愛、安らぎは持ちきりにはならない!
風に乗って運ばれてゆくようなもの...
だから...とにかく祈る!
祈らざるを得ない!
祈らされている!
何の因果、因縁かは分からないが...
そういう自他を超えたつながりにあって、祈り、祈らされているのだろう...
だから、性懲りもなく...今日も祈るしかない!...



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