人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

風邪が教えてくれる

2025-02-28 06:06:01 | 独語
今年は風邪の当たり年のようだ
いや、昨年の暮れから始まっている
寒波が到来するたびに罹ってしまうようだ
いや、昨日は暖気に変わっていた
症状は全くこれまでのものと違っていた
あの鈍い“ぶーん“という耳鳴りは一緒なのだけれど、突然耳に鈍い痛みに襲われたではないか!
中耳炎?...こんなのは小学生以来ではないだろうか?
“きーん“というあの神の現臨を誘う耳鳴りは感じられない
いや、痛くてそれどころではない!
“どくんどくん“、と鼓動か血流が脈打っているのが感じられる
耳が段々腫れてゆくように熱く、膨らんで来る
夜遅いこととて医者に行けない!
益々酷くなって明日までもつのだろうか?
そうして、その痛む右耳を床に向けて、何か“がらんがらん“と鳴っているのを聞いているうちいつの間にか寝入ってしまった...
“これでよし!“、寝たら“起きた時に起こる“のを待てばよい!
“果報は寝てまて!“
あに図らんや、痛みは引いていた!
そして、堰を切ったように、シャワーが降り注ぐように聞こえる、あの“きーん“の耳鳴り...
通った!...滞っていたものに穴が開いた!
こうした風邪の症状にならないと実感出来ない
何という爽快さ!
そして、あの御方が臨んで来た!
風邪が教えてくれるもの...
それは、“きちんと規則正しく、健康に生きなさい“ということか?
それも勿論だけど、この浄化作用を通して、自分自身にある変化が訪れていることを告げているのではないか?
いや、もしかしてそれは世界的規模の変化なのかもしれない...
変化にどう対応したらいいのだろう?
分からない!...どうしたらいいのか?
だから、自分でどうこうするんでなく、身体の変節が自然に訪れて、それを受け入れるだけなんだろう?
通る時には通る…開くときには開く!
悪くない!
悪い部分、苦しい部分もあるけど、通り、開くことに悪かろうはずなど無い!
今年は、私的にも世界にもある大きな変化の波が押し寄せているのを感じざるを得ない!
ただそう思うだけでなく、この身を通して!
苦しい、耐えねばならないこともあるだろうけど、大きく、固い岩盤を貫けば、トンネルが開通するように、きっと明るいものも見えて来るだろう!...

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生活と一枚の祈りと瞑想

2025-02-26 04:20:02 | 祈りと瞑想
私は常々祈りと瞑想は分けることは出来ない、ということを言っています。
あくまで私が理解している限りでの祈り、瞑想のことなのですが...
瞑想というと、一般には一定の座り方や呼吸法やあるイメージを思い浮かべたり、チャクラに精神を集中したりなどの行法を伴うものという風に理解されているようです。
そのように、自力的な意志努力に依らなければならないのだ、と。
こういうものが瞑想なら、マントラを称えるやり方などはともかく、別段祈りとつながるということも無いでしょう。
しかし、私は一度もそういう瞑想に依って、瞑想の深まった境地とされるサマーディ(三昧)と言われる意識状態に導かれたことは無いのです。
ましてや、神的なものが臨んで来る、臨在感に与ることなどとてもありそうにないように感じてしまいます。(ちなみに、このサマーディと現臨感とは通じるものがあります)
というよりも、そもそもが意識がそういう自力的な瞑想行には向いて行きません。現実には“やれ“、と言われても困難なのです。(無理してやったら先の幸福なことに与れなくなるのは必定でしょう)
だから、自然と意識が向いてしまうようなことに導かれてしまうのです。
勿論、取っ掛かりとしてそのように意志するということはあるのですが、すぐに自然と神的なものの臨在を覚え始めるのです。(現実にそうなってみて感じるには、やっぱりこれもある種のサマーディではないかと思うんですけども...)
これが思いを超えたものに依り、それから離れられる、超えられる状態と言ってもいいのです。
そしてこれが、先の分けることの出来ない祈りと瞑想のすべてなのです。
それだけか?...と思う人は、思いを超えた意識領域とつながることが、どういうことかが分かっていないのです。
私はこのように普通の瞑想行とはほとんど縁が無いので、こんなこと言うのもオカシイようですが、瞑想ではサマーディの境地を目指したりするのでしょう?
しかし、思い、為そうとする自分から思いを超えた境地を目指すというのも、オカシイことですね?
別にそういう境地を目指している訳でもなく、自然とそうなってしまうのですけど...
これは、やっぱりその超えたものを頂いている...だから祈りと分けることは出来ないのです。
分けられないですね、これは!...
寝て、起きた時などは特に分けられないものを感じてなりません。
意識的になろうとしなくても、現臨の、サマーディの状態になっていることが多々あります。
そう、それは生活と分けられなくなってしまったようなのです!
自分の本来的な在り方は、生活と一枚にならざるを得ないということなのでしょう!...
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思考と意識の違い

2025-02-24 06:54:30 | 意識、照明
思うこと、思考の次元とより深い意識の次元の違いについては何度も書いていますが、普段の感じ方でハッキリと分かる違いがあります。
喩えれば、思考の方は、水をどっかの泉からすくってきて、器に注ぐようなものに対して、意識の次元というのは、そのコンコンと絶えず泉から水が湧き出ているようなものとの違い、と言ったらいいでしょうか?
思考というのは、例えば何かの真理が分かったように感じることもあるけれど、それはその時に分かったと思うだけで、時間が経つとそのジワッと感じたものはいつしか消えてしまい、器の水が無くなってしまうようなものです。
分かったことの記憶はあるものですが、それを表現するには、その記憶をなぞって表さなければなりません。
そうやって思考を組み立てたりする訳ですが、お分かりのようにそれは、観念の世界でなされているもので、何度も繰り返していたら、思考も行き詰まり、色あせてしまうものです。
これに対し、意識的な感じ方というのは、いつもそのアリアリとした、活き活きとしたものは頭でなく身に覚えられており、それを表す時は、分かるとか分からないということで無しに、その表さんとするものをいつも感じていることが出来るのです。
例えば、神的なものが臨在するという、現臨感などが正にそういうもので、現に臨んでいる感じが無ければ、それは単なる記憶をなぞった、言葉の説明に過ぎないものということなのです。もっともそれを聞かされている方は、同じ言葉で表されたりしたら、中々その違いは分からないのが普通でしょうが...
いや、そもそも言っているような思考と意識の次元の違い自体、それを考えていたりしても意識的になってみないと分からないのが普通なのかもしれません。
けれど、誰だって何かが“降りて来た“ように感じた時など、アリアリと活きたものを身に覚えることとかあるでしょう?
そう、そういうものは、単なる思いの記憶を超えて、身に覚えられたりするものなのです。
ただ思考の表層で感じたものよりも、ずしんと何か重い、ウェイトを持ったもののように感じるはずです。だからそれが“重要“なことなんです!
端的に言えば、それは消えてゆくものか、消えないものかの違いでしょう。
意識的になることは誰でも感じているものだし、それは全くもって人間存在にとり思考よりも本来的なものであり、固有に結びついているものと言えるのです。
意識的になるには、自分にとって大事なことを感じたなら、ただそう思ったと思うので無く(ヘンな言い方)、じっくりと重く感じてみたらいいのです。
だから、ただ消えてゆく姿となるだけの思考なんて考えるだけ無駄なことなのですよ!...って、そんなこと言うつもりはありません!
生まれつき与えられたものに無駄なことなど一つもありません。思考が無ければどうなるか、“考えてみれば“分かることじゃないですか?
先のように、何かの真理が分かったように、何かが降りて来たように感じたなら、そう思考されたものを、意識次元につなげることは可能なはずなのです。
というか、私が現臨感について何かを書いている時などは正にそう自然にやっていることなのです。
思考すること無しに、どうやってあの何か意味深そうな、ケッタイそうな真理らしきことなど書けるものかってんですよ!
要するに、思考されたものを意識次元に立脚したもの、そこから切り離されないものにすることです。そうでなければ観念に浮いてしまうか、息詰まってしまいます。
意識の泉から思考の器をつなぐには管を通せばいいのです。
それも、“あいつはどうも言っていることが何か普通でない、何かを悟っているのか、単にオカシイだけなのか?“、と思わせる人なんかは自然にやっていることだったりするのですけどね?
ふふふ(別に意味の無い笑い)...




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分かっていて分からない、ありのままのこと

2025-02-23 06:34:44 | 求道、探究
ありのままに...

もう、聞き飽きたと思っている人もおられるでしょう?
“ありのままになればいいんでしょう?...ハイハイ分かりました“...って!
そういう人は多分、何も分かってないんでしょう?
分かるんなら、さっさとありのままになったらいいだろう?
出来ない?
そう、それが本当かもしれない?
多くの人は、そのような言葉を聞いて、“ありのままにならなければならない!“、と思うんじゃないでしょうか?
ダメな、悪い自分を受け入れなければならない、とか...
ありのままの自分を受け入れるとは、ダメ、悪いことを肯定することじゃありません。
ましてや、否定することでも更々ありません。
その自分を受け入れることは、それでいい、そのままでいいってことでもあるようですが、それは自分の思いで肯定することではありません。
だから、それはありのままに受け入れることなんです...って又戻る!
何度でも戻る、戻らされる...
本来の、自然な自分に!
そのままでいい、と肯定感を感じさせることは、大抵の人は、ダメな悪い自分を否定する、受け入れたくないと思っているからです。
マイナスなことは否定する...そしてプラスな自分を思い描いてそれを肯定する...
それでは、いつまで経ってもありのままの自分を受け入れられないですよ!
分かってるでしょ?
だから、“ああ、もう分かってる、分かってる“って思っているんだ!
だからそれは、肯定したり、否定したり、思おう、考えよう、やろうとしている自分からは出来ないのが本当なのでしょう?
それは、ありのままに在らしめているものがあるから出来るのです!(出来るということも当たっていないが...)
これが在る!
思い、為そうとする自分が居る前からそれは在る!
神とは何か、本当の自分とは何か、そしてありのままの自分を受け入れるとは何か?、と考えるよりも、これがそのまんまのことなんだ!
考えたり、思おうとしたりする必要は無い!
ただ、そのまんまのことを感じていたらいい!
それで、自ずと思いは超えられる!

ありのままに...
多くの人が神、真我を分かろうとしたり、思いを超えようと模索しています。
誰もが分かっているようで、分かっていないような、こんな身近なことの中に、それらのまんまのことが凝縮されているのでしょう。

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思いを超えたものが導く

2025-02-21 06:41:23 | 求道、探究
以前、私がいつも何かとイジっている、あの反面教師の画伯から、「あなたは、“パッと神に意識を向けるだけで、神が臨んで来てそれにゆだねられる“、と言うけど、そのように出来たらいいですよ、私には出来ないんだ!」と向けられたことがありました。
そりゃ、そうですよ。私にも出来ません!
この人は、そのことを自分がやること、やって出来ることだと思い込んでいるのです。
自分の意志想念で、神的なものが臨在して来るのでは無い。そういう思いを超えて顕わになるものがあるのでそれにゆだねられる、というだけのことです。
それは寒い冬の日に、暖かい日差しが照って来るからそれにゆだねられるようなものです。
といっても、取っ掛かりとしては、自分が意志して思いを向けるというか、祈るということはあるんですよ。この人だって五井先生に習っていつも祈っているんじゃないのか?
やっぱり、自分でやろうという思いが強いんだろう...いや、それよりもそういう一心に、真っ直ぐに神に思いを向けよう、祈ろうとする意識を妨げるような、考えても分からないようなあの世のこととか予言、陰謀論などのことに囚われる思いが強いのでしょう。
この人も時折は、“こんなことにいつまでも囚われていてはダメだ、神に、本心に立ち返り、思いを向けなければダメなんだ“、とか思うようなのですが、それが定着すること無く、何かそれから外れるものに心が触れたりすると、ズルズルと引きづられて行くらしいのです。
そういうカルマというか、思いのクセ、くん習があるようなのです。
要するに、神にゆだねることが出来ないのでは無くて、そういう思いから離れることが出来ないのです。やめようと思ってもやめられないからくん習なんでしょう。
私にもそういう神、本心から脱線する思いというのもありますよ。いや、この人のことをやたらとイジリ倒す思いというのも何かの因縁というか、くん習なのでしょう?
けど、それ以上にそういう思いを超えて、あの現臨にあって、愛、平安に与ることが知られているのです。それによって思いから離れられるのです。
それを知っているから、いつまでも思いが囚われ、ぐるぐる回り、くすぶり続けるということはありません。
これは一つには、先の興味本位だけの、上辺の思いから精神的な道を求めることで、コワイ目、イタイ目に会っているので、身を持ってそのマイナス面を知っているということもあるのですが、何よりも、その思いを超えた天来の一撃を受けたことが大きいのです。
自分の思いに囚われているのだから、自分の思いでどうとかこうとか、中々出来るものではありません。それを超えたものの導き無しでは!...
だからそれを一心に求めるのではないですか?、祈りを持って!
前世のカルマなんて言っても分からないですが、思いのクセ、くん習から離れられるのは、それを超えたものから幸福がもたらされるからです。そのことを思ってるだけでなく、身を持って知らなければなりません。
それに与るならば、自ずとそれから外れることには思いが向かなくなります。
これはやっぱり祈りから開かれるとしか言いようがありません。純一、主一なる祈り...
このことをしっかり意識することで、横(邪)さのものには囚われなくなります。
出来ない?...自分の思いでは出来なくとも、神を求めずにおれない、一つにならずにおれないという本心というものがあるではないか?
段々迷った自分が本当の自分、真我になるとでも?...自分がどんなにダメ、悪かろうが本心というものはあるでしょう。
本心に目覚めるに遅すぎるということはありません。その気が無いのなら、本心が分からないというなら、多分生まれて来るのが間違っているのでしょう?...
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