人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

一年の終わりに

2024-12-31 08:44:46 | スピリチュアル
“神的なものが臨む“、とか言うと、何かのそういう霊的実体があって、この自分に接触して来るみたいなことを思い浮かべる人も居るかもしれません。
私は、一度もそういう説明をしたことは無いのです。そういう実体のことは何も分かりませんで、ただそういう臨在感というものが感じられるのです。
そして、それは同時に(微妙な順序から言うと、臨在感の方が先でしょう)私自身の実存感覚をもたらすものでもあるのです。
これは又、一個なる考えている自分を超えて、そういう意識状態になっていることを言い表しているのです。
これに、霊体だとか幽体、エーテル体、アストラル体などの実体のことなどは、どうでもいいことなのです。そういうものは、予めあなたが知識としてどこからか得た情報にすぎないものでしょう?
そういうことをいくら頭脳知で知ろうとしても、閉ざされこそすれ何にもなりませんよ。
それで、心が安まりますか?、幸福感がありますか?、リアリティが感じられますか?...そういう固定観念にしかならないものを追いかける必要はありません!
(だから...現臨にあって、愛、平安、リアリティが感じられるからその必要を感じないのです!)
そういう観念に囚われていたら、そもそもその“現臨“というものは開かれて来ないでしょう。だから、それは思いを超えて臨むものだ、と言っているのです!
そして、こういうことに言及している時は、実際にそれを感じて言っているのですよ!
現実的なことを言えば、数十分前までは体調がイマイチというか、明らかに寝すぎのためか、スカスカしてて、中々開かれて来ない感じがあったのです。
一個の私からは、それが臨んで来なければ、何も開かれないんだからしょうがない!
私はただ性懲りもなく、祈るしか、意識を向けるしかありません。それで何も開かれないのならそれも仕方の無いことなのです。
すべてはわが主にゆだねられているのですから!
主にゆだねよう!....開かれようと、開かれまいと、すべてそれでよい!
これはね、何だろうと、一個の私に閉じられてない、ってこと!
だから、すべてそれでよい!
一年の終わりに...これでよし!
こないだの続きみたいですけど...今年一番印象に残っていること?
それは、今の今のことで無くてなんであろう!
いつの今のことかは分からないけれど...

皆さんにおかれても、今が最善の、良いお年となりますように!...

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今年一番印象に残っている出来事は?

2024-12-29 14:43:55 | 雑感
今年一番印象に残っている出来事は?...
無いですね!
おしまい!...

な~んて、そりゃね、年明けいきなりの能登の震災のこととか、世の中の重大ニュースとかありますよ。
でも、こういうことは、もっと直接感じた、ごく個人的な出来事ということになってしまうんです。
例えば、“街で偶然出会ったあれが予想外にナニだったので、思わず興奮した!“、とかそういうことなんです。
ところが一番となると、これがねえ、思いつかんのですよ。
あ、そうそう、昭和47年の日本レコード大賞(毎度古くさてすまん!)は「ちあきなおみ」の歌った「喝采」て曲なんだけど、これがリリースされてからの最短記録だったって話、つい最近まで知らなかったんですよ!
ど~りで、あの時は、“何で聞いたことの無い曲が受賞したのか?“って首をかしげてましたっけ!...しかし、そういう話これまで聞いたこと無かったの私だけか?
これって、今年一番印象に残ったニュースになるん?...
それよりも、今、今のことなんですよ!...午前中どうしても体調がイマイチで、あれが感じられなかったものが、何かパ~ッと開かれたようになってきましてね。いつものことなんですが...
え?...いつもこういうことが起きてんのか!...
んじゃ、いつも起きてない時はどういうことになってんのよ!
きっと、今年一番印象に残った出来事の候補になるようなこともあるんでしょう?
だけどね、こういうことがあるとね、印象に残らなくなるんですよ。
ああいうことも、こういうこともとにかく思いを超えたものに包まれたようになり...
印象はこのことによって、何かスポイルされるようになってしまうんです。
そういうことがいつも起きちゃう訳!
そのうち、どれが一番印象に残るかってことは、余程爆発的だったり、キョーレツだったりしない限り、どれがって言えないですよ。
これはつまらないことなんだろうか?
いや、つまるとかつまらないとか、いいとか悪いとか...あのねえ、悪い方に印象に残ることも残らなくなるんだから、こりゃきっといいんでしょう!
ずっと毎年こんな感じなんだ...いや毎年とか毎月って問題じゃないけど...

という訳で、皆さんも今日が、いや毎日がいい日でありますように!...



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対象のある愛、対象の無い愛

2024-12-28 07:36:32 | 
インフルの方は今のところ落ち着いて来ていて、といっても完全に抜けたという感じにもならず、小康状態が続いているのです。(“とんぷく“効かないぞ!)
何だか今月に入って、ずっとそういう状態になっているようなのです。
“抜けた“状態というのは、具体的な感覚のことを指していまして、“ぶ~ん“という、あの鈍重な耳鳴りが抜けることを言っているのです。
これのために、あの“き~ん“という、現臨感の兆候も閉ざされて...な~んて、一時そんな状態になったこともありましたが、同時に聞こえる感じになっていて、そういう小康状態が続いているということなのです。何にしても“き~ん“が失われないことは大きいことです。
それが、あの“御方“の通られる通路の開かれる印なのだから!
そこから“愛、平安“がもたらされるに他ならないのです。
これは、いつも言っているように、具体的なことを言い表しているのです。
それは、具体的に感じなければ分からないでしょう。ハイ、ヤボなこと言ってますね?
それにはね、神を信じなければならないのですよ!、ってそんなヤボなことは言いません!
そういう信じる、思い描く、イメージする、念じる、といった自分の思いを立てるようなことではないのです。
例えば、“愛、安らぎ“を感じていないのに、神を信じよう、受け入れようとしたってしょうがないではありませんか?...(惰性ばっかしの神信仰多いのお!)
そんなデキアイの信仰ごとでなく、神のことを持ち出さなくとも(それは私の話)人それぞれ愛している、愛してやまない、惹かれてやまないものってあるのではありませんか?
好きな人、ペット、マスコット?(乃木坂の“るなぴ“に聞け!)...いくら何でもそんなものがなんだ!、と思う人もいるかもしれない...だけど対象は何であれ、おカタイ人間が何と言おうと、自分がどれだけその愛を感じているかどうかが肝心なことなのです!
私は言おう!...対象は何であれ、“あなたにとって最愛のものこそは、あなたの神ではないか“、と!...これ、デキアイの信者どもには絶対に分からないことでしょう!
そう、ここでは具体的な対象となるもののことを言っています。 
重要なことで、無常なことですが、その対象は、愛の媒体となるものですが、ずっとそういう対象であるとは限らないということ、愛が感じられなくなることもある、ということなのです。(愛無き変質した有り様は、執着というものでしょう?)
別のものに対象が移るかもしれないのです。しかし、それは何であれ、愛を感じているあなたは居るということなのでしょう?
これが愛というものの本質なのです。愛を感じているあなた無しにそれはあり得ないのです。当たり前すぎる話だと思いますが...
で、私がいつも言っている神、神的なものと言うのは、対象の無いもののことを言っているのです。“モノ“では無い!
無くなるとか、他のものに移るということも無いのです。対象が無いということは、それだけ感じている自分との二元性は超えられる、一体感があるということなのです。
この感じ...対象があろうと無かろうと、最愛のものを感じている人には分かるのではありませんか!
そこで、その感覚そのものを意識してみるのです。感じてみるのです。
対象の無い愛、愛そのもののことが分かって来る...かもしれない?
又、対象が何であれ、その媒体に体する感じ方、接し方もきっともっと深く、変わったものとなることでしょう?
対象があっても、そのベースとなるものは、この分割出来ない、分離出来ない、“愛そのもの“にあるのです。
そうなると...私が最近よく言う、“神、真我しか無い“ように感じられて来る...かもしれない?
これ、神や真我の実体論みたいなことを言っているのではありません。
あなたが最愛のものと共にある時、そのように感じざるを得なくなるのではありませんか?!...






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もう負けたわ!

2024-12-26 07:40:01 | 雑感
ついこないだ、風邪をこじらせたことを書いたんだけど、ずっと良くも悪くもならず小康状態が続き、数日前、無理して仕事に出たのが悪かったのか、今度は高熱が出てもっとも酷い状態になってしまいました。
さすがに医者に診てもらったら、何とインフルエンザAにかかっていたのです!
ずっとかかっていたという訳ではなく、その悪化したと思った時にかかったんだそうです。
こんなことは恥ずかしいので書かんでもいいのですが..
現実にかかっちゃったんだからしょうがない!
もう、アタシャ負けましたわ!
そうです。私は、とても身も心も弱い人間なんです。
自分を強く見せようと、精神力とか気力なんて言ってたってしょうがない!
弱いんだからしょうがない!
それが現実なんだから、受け入れるしかありません!
苦しかったら医者にも行くし、薬も飲みます。
で、医者が「今、何か薬飲んでますか?」と訊くので、「ハイ、“改源“を少々...」と答えると、するとその若ハゲのセンセ「あんなの鼻クソみたいな薬です!」と言い放ったので、「な、ナニイ?...」改源のカタを持つ訳じゃないけど「でも、あれ効くぞ!」と私。
「そう、思うんなら飲むのは自由ですから」「いや、思ってるだけじょなくて現実に効いたこと何度もあるぞ!」と、やってたら「分かりました。ではこちらの処方箋出しますか、どうしますか?」となり、「折角だから...」(飲んでやることにしよう!)で落ち着いたのでした。
こういうところは結構強きな私。思っているだけのことにされて、現実をねじ曲げられるのがイヤなんです。
で、その“とんぷく“を飲んでみたけど、やっぱり改源の方が効いたではないか!(思っているだけかな?)
で、こういう状態の時というのは、あの“臨在感“が感じられなくなる、閉じられた感じになるとこないだも書いたのでしたが...
これがちと違った!
ものすご~く開かれた、解放系に向かっているのです。
ちょっと浮いている感じはあるんだけど、幸福がこみ上げて来る感じです。
だからもう、精神力とか気力のことなんかどうでもいい!
そういうものは“思っているだけのこと“にして、現実を覆い隠してしまうだけでしょう。
現実の前には...もう、負けましたわ!
現実というのは、リアルなことで、そう感じている、感じざるを得ない、受け入れざるを得ない私がいるということです。
受け入れ難い現実とはちと違うのですよ。“受け入れなくっちゃあ“ってもんでもありません。それは自分の思い、力によりかかっていることなんですから。(改源に拘ることでも無いですが、あの解放系に向かったのは、その効果が全く無かった訳でも無いでしょう?)
そうならざるを得ないものの現存、現臨...もう、負けるっきゃない!
もう、トシだし...トシとらな分からんこともある!

それにしても、今度のインフルの猛威は、想像以上のものがあります。
くれぐれもご注意を!...


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イエスは人の子

2024-12-25 06:23:17 | キリスト教関連
イエスはどこから来てどこへ行ってのか?
忽念と我々の前に現れた
彼は我々の真っ只中にいた
隣人のように...
我々、底辺に生きるものとも好んで交わった
彼は我々と同じように、泣き、笑い、怒りを表した
ただ、彼は何ものかの意志のままに導かれていた
“私は自分からは何も出来ない、みこころのままに言い、為すのである“
何に導かれていたのだろうか?
そしてあの十字架刑は全く唐突だった
底辺に生きる我々には何が起きたのか、何でそういうことになったのか分からなかった
彼も人の子、死刑にあって死んでしまうんだ
いや、彼こそは人の子なんだろう?
我々の真っ只中にいたのだから
あの後、イエスは死からよみがえったという噂が流れた
私はそれを見ていないので分からない
でも少なくとも私には、私の中にはどうしても消え去らない、ある感覚が芽生えた
それが何かは分からない  
私の思い、力を超えたあるもの
イエス個人、私個人からは出てこないあるもの
それにある時、例えようの無い、愛、安らぎが感じられる
イエス亡き後、よりその感が強くなったようだ
何だか私がよみがえったようにも感じられるではないか!
イエスとはどういう人間だったのだろうか?
イエスは人の子
我々の真っ只中にいた
しかし、見たまま、思われたままのものを超えて生きていた
イエスはどこから来て、どこへ行ったのか?
それは我々がどこから来て、どこへ行くのかということを仄めかしているのではないだろうか?
イエスは人の子
そう、我々を代表している人間なのだろう...



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