人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

実存体験を今に

2025-01-30 06:18:40 | 回想
これは幾度となく書いていることですが、昭和55年の春、私は高砂市の大調和協会で命位様と相対しました。
命位様は、私のたどたどしい言葉を発したことに、ハタッと何かを感じたらしく、私の手を強く握り、「私の目をしっかり見て!」と促し、このようなことを言われたのでした。
「あなたは、天地と真っすぐに一つにならないと絶対に承知しない人なんです。どうぞ、どこまでもどこまでもあなたが本当に得心するまでお行きなさい!、そのことをお祈りしていますよ!」と。...
思い返せば確かに私は、上辺の何かに流されやすい、迎合しやすい性質に相反して、そういう人間であると感じざるを得ません。
詩人の茨木のり子さんじゃないけど、“デキアイの宗教にも思想にも寄りかかりたくない!“、という気持ちをどっかに強く感じて生きて来たのです。
それを感じているのは、表層で思ったり、為そうとする自分ではないのですね。意固地な自分の信念なんかでそうなっているんじゃない!
私は、生まれて初めて、私の知らない私そのものを目の当たりにしたように感じました。これは、強烈な実存体験だったと言えます。
こういうことがあった直前、私はベルジャーエフの本を読んで、生まれて初めて私の内奥の暗部に光が差し込んだ、というような、これもある種の実存体験がありました。
つまり私は、この時期、初めての実存体験に別の有り様で、立て続けに与ったということです。
実存という...私は“流行的実存主義(?)“のサルトルの本など読んだことなどなく、実存の意味など分からなかったのですが...いや、実存の意味が頭で分かったからとて何になるだろうか?
それは、正に実存体験という、本来名付けられないような事態を通して直接的に、全人格的に分からされるものでなくて何であろう!
それは、最近この場で繰り返し表している、“一コの自分を超えた、全的自己との邂逅“という他ないでしょう。
先の命位様は、こうした私の、何かが噴出して来そうな意識状態に感応されたのに違いありません。
これはですね、数十年前の回想ごとで無くて、実に今日の今のことなんですよ!
あの時は、とにかく人生経験も浅く、自覚的では無かったのです。
そのようなことが突発的に思いを超えて、顕わになることもあるけれど、表層の思いに流されたりすることを繰り返していたのです。
それは、その数年後のあの、爆発的覚醒体験に与った時でも同じなのです。すぐ元の木阿弥になってしまう…。
しかし、私はずっと、すべての私なる主と一つにならないと絶対に承知しない人間だったのです。いや、主の方が私をほっとかないでしょう!
いよいよ私は主に迫られ、取られて行くのをヒシヒシと感じずにおれません。
言葉だけに触れていても何故そういうことにこうして懸命になっているのか、多分伝わらないでしょう?
あの愛、調和、平安、リアリティが一つになった至福は、他の何ものにも代えることなど出来ないからですよ!
何でデキアイの宗教、思想などに安易に追従などしてられようか!
神と自己が一つになるという運命からは、何人も逃れることは出来ず、受け入れるしかないのです!...

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わが主に凝縮されるもの

2025-01-28 04:25:23 | 祈りと瞑想
朝目覚めた時など、よく自然と祈りとも瞑想ともつかないようなことに導かれるのですが、それには僅かに意識が向く、向けられるということがあるだけで、通常祈りとして理解されている形というものはありません。
従って、キリスト教のイエス.キリストとか、浄土系仏教の阿弥陀如来といった特別な帰依対象というものも無いのです。
それでも強いてそれを表すとしたら、(それだけだと何を書いているのか分からないだろうから、読み手を意識して)“わが主“ということになるでしょう?
“そうか、キリスト者なんじゃん?“、って思われるかもしれませんが、それはそっちでは、“主キリスト“という呼び名が慣用化されているだけなのであって、どの宗教でも“わが主なるもの“の響きというものは頂いているのではないでしょうか?
何度か言っているように、それは一コの私を超えた、見えない領域を含めたすべての私のことをその一語で言い表しているのです。
これは、ちょっと前にも書いたように、私にはわが主キリストという呼び名でも、自分を超えたものであると同時に本当の自分自身でもあるという、そういう響きは感じられて来ます。
又、仏教のブッダとは、阿弥陀仏のような帰依対象にとどまらず、内在のブッダ、“仏性“という意義も含まれているものであり、これもわが主の内実を伝えるものと言えるでしょう。
つまり、キリスト(性)、ブッダ(性)というものは、意識の在り方次第(観念的に信じるだけで無く)では、それ自体が超越的な神的なものと、内在的な真我的なものを一つに、直接的に自己に開かれるものなのです。勿論、こういう例は他にも多数あることでしょう。(私の場合、朝の目覚めの時など、そういうことが身に覚えられているので、特定の名を用いる必要が無い、ということなのです)
この点、イスラムではどうなのか?...預言者ムハマッドというイエス、ブッダと並び称される聖者は、“わが主ムハマッド“という風に先の、神と真我が一つになるように、祈り、瞑想の場で呼び慣らされている例はあまり聞きません。
預言者ムハマッドは、唯一神アッラーを取り次ぐ存在であり、そこで神との関係は二段になってしまいます。又、前回にも書いたように、唯一全能の神というのは、抽象的で捉えどころが無く、直接自己実存につながって来ません。
もっとも、これはあくまで概念的な説明をしたまでで、あらゆる霊性の道、神秘道においては、そういう言葉を超えて、イスラムでしたらムハマッドに、アッラーに“わが主“が重ねられるという例もきっとあることでしょう。
このように、“わが主“という一語には、一元も二元も超えた、あらゆる霊性の道が凝縮されていると言っても過言ではないのです。
それが祈りに結びつけば、神との人格的関わりと言われるような性質のものに導かれるのが自然でしょう。
しかしそれは、字義通りの意味を超えて、他人事でない、神と自己との直なる関わりとなることを言い表しているのは言うまでもありません。
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全能の神と実存の神

2025-01-26 06:53:03 | 
神は全知全能と言います。
しかし度々書いているように、私はそのことを直接的に知っている訳ではないのです。
なるほど、我々の人体の構造、機能のことや、自然界の諸々の有り様を見ても摂理というか、何か大いなる意志というものを思わずにおれません。
だからと言って、それはすべて神が創造したのかどうかは分からないのであり、多く一神教的な宗教などで説かれていたり、聖書の創世記などで読んだものを信じているだけなのです。
要するに、そうした神理解は抽象的なもので、私の実存には響いて来ないのです。
私は以前、インドネシアのイスラムをバックボーンに持つ「スブド」という(そこでは宗教ではないと言うが)宗教的な団体に関わり、人の思い、力を超えたハタラキ、生命力を受けることによる「ラティハン」と呼ばれる、ある種の霊的修練をしていたことがあります。
その創始者「ムハマッド.スブー(バパ)」は、講話でよく「この力は全知全能の神から来るのです」と述べておられました。
それが自分の思い、力を超えたものであることは、直接感覚されるものなのだから分かるのですが、全能の神のことは伝わって来ないのです。
私の知る限り、私の内性的なもの、自己自身と直結した、言わば“実存的な神“のことはあまり語られることは無かったようです。
そういうことは、概念、言葉による理解のことなので、あまり重要なことでは無いという向きもあると思いますが、私はそうした通常の在り方を超えた修練を行う上では、無視出来ないものを感じてならないのでした。
それでは、何も立脚するところが無く、中心となるものが分からず、捉えどころの無い、空漠とした、宙に浮いたような意識状態になり、精神的なバランスを欠くような傾向が生まれるでしょう。事実そういう現象もしばしば見られたのです。
このようなことを単に言葉で聞いただけでは、それは抽象的な観念論のように感じる人も居るかも分かりません。
何に精神的に立脚するか、中心を置くかということは、自分の思考で思い描いているのでは無いか?、というように...
それを言うなら全能の神を信じることについても言えることでしょう?
私は思い描き、自分の信条とする神のことを言っているのではないのです。
意識の在り方のことを言っているに他ならないのです。
思いを超えた領域で自ずと、その超越的なハタラキと自己の内性と切り離されないものが感じられて来るような状態のことを言っているのです。
いや、こうしてその神的なものを意識したら、直ちに自己の内的なことが分かたれずに意識されてしまいますけどねえ。(あまりこの内的とかいう言葉に囚われる必要はありません。ここでは、内的だろうと外的だろうと、意識的になっていることが内的なことなのであり、思考、頭脳知を働かせて、抽象観念を信じているようなことが外的なことなのです)
前々回でも触れたように、このように超越的なものと内的な、実存的なものが一つになるようなことが“人格的な神“を直接知るということなのではないでしょうか?
少なくとも、私には意識的に深くなると、自ずとそのように導かれるのを感じています。
“神を知ることは、自己を知ること、自己を知ることは、神を知ること“
同じイスラムの伝統でも、ペルシャの神秘家「イブン.アラビー」がこのように述べていたようなことに私の内なるものは落ち着かざるを得ないようです!...



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夢を具現するモンスター

2025-01-25 06:59:49 | 雑記
昨日行われた井上尚弥の防衛戦は、挑戦者のキムには悪いが、これまでで一番試合の関心、期待感が湧いて来ず、何だかノンタイトルマッチのようにも思えるくらいなのでした。
それくらい、井上の過去の相手は、彼とは別位置に君臨する現役の世界チャンピオンやトップコンテンダーばかりだったのです。
それもほとんどが圧勝してきたのですから...せめて、世界ランキング10位に入るくらいでないと!...これも急遽の変更なのだから仕方ないことなのですが...
実際に見たキムというボクサーは、私が見馴れていた、コーリアン.ファイターと違い、荒々しくガンガン来る感じでなく、どことなく構え、特にバックステップするところなどは、スティーブン.フルトンに似ている技巧派で、もっと評価されていてもおかしくない選手と思いました。
もっともそれだけに、そのコーリアンのラフな試合運びから、負傷とか予期せぬ事態もあまりイメージされず、井上が負ける要素はほとんど感じられないのでしたが...
それにしても、大橋会長の現役の頃、1980年、90年代にかけてわが国のボクシング界を確実に凌いでいたであろう、アジア一番とも思えた韓国ボクシング界の低迷ぶりはどうしたことなんでしょう?
コーリアン.ファイターの飽くなき闘志、圧力、休むことのない連打、タフネスの前にどれだけわが国のボクサーは煮え湯を飲まされて来たことか!...
あんなのは、段違いのスピード、鉄壁のディフェンス、フットワーク、一撃で倒す強打、多彩なパンチ、カウンターの技術を持ったボクサーが現れたら一蹴出来るだろうに!...などと思ったものでしたが、それが今、井上を通して具現化されているとは!
渡嘉敷さんやメキシコから輸入されてきた強豪、大関(ヘルマン).トーレスがどうしても勝てなかった、張正九でもバッティングで負傷判定を拾うくらいしか、たとえ井上が拳を痛めて片手で戦わざるを得なくなったとしても、勝つことは難しいでしょう。
返す返すも井上の存在は、昔のことを知らないファンには分からないだろうけど、かつての夢を具現しているのです!(あの時私は何を苦しみ、悩んでいたのだろう?...何かが臨むことをどんなに願っていたことだろう?...)
井上こそは、現代日本を代表するモンスター的な存在です。
我々一人一人に内在する、モンスターを呼び覚まさずに置かない!
(といっても、それは私が井上の如き超人になる、ということを意味しているのでは勿論ありませんよ!...表側と裏側のことを混同してはなりません!)
急の代役を引き受けてくれた勇敢な挑戦者のキムの夢は絶たれたのか?
誰も君の勝利など信じる者は居なかっただろうけど...(試合を盛り上げようと、過去最強の挑戦者なんてことをある人が言っていたのは白々しかったですが)いいパンチを何発か当てていたではないか!...結構トシもいっているようなので、あの涙は?...
これまでモンスターに挑んだ強豪と比べても、何ら遜色無いと思わせるに十分な試合を見せてくれた。夢のリングに立つことが出来たではないか!
出来たら、今度こそ井上以外の強豪を食って、本当の番狂わせを見せて欲しい!

それにしても、この選手どっかで見た、それも頻繁に見る顔に思えてならないのだが!...どこにも居る日本人みたいな?(代表的日本人?)...彼も又、井上とは別の意味で夢を具現するボクサーなのだろうか?...

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神と人間と人格

2025-01-23 06:51:39 | 哲学・思想
神には人格があるのか?
人格神という、あるいは非人格的な何かがあるのか?...

こういうことについては、どうも皮相的な見解から語られることが多いように感じてなりません。
何故って、神のことは、知的概念で合理的に理解することが出来ないものであるのに、神が人格を有しているかどうかなど分かるはずがないからです。
いや、人格というものからしてからがそうなのではありませんか?(ここで言う人格とは、誰それの性格であるとか後天的に形成されるような性質についてのものでないことは言うまでもありません)
そういうものを実体論、存在論のように説明されても、知性がくすぐられて分かったつもりにさせられるだけで、目の当たりに触れる、関わるということがありません。
ただ人格について言えば、それは全くもって我々一人一人の個己に関わるものであるのは確かなことでしょう。(これは、一コの考える私のことだけのことを言っているのではありません)
それは、概念で理解出来るものでは無いが、それらしきあることを直接的に感得することはある、ということです。言葉で言い表せないそのあることを、メタファーとしてそのように表現されるものなのではないか?
ベルジャーエフが随所で語っているように、人格は実存と関わるものなのでしょう。
主として、西欧キリスト教で語られる人格神というものは、自己実存と切り離すことは出来ないものなのです。もっともそこにあの超越的な生命の消息が抜け落ちてしまえば、抽象的にそう信じるというだけの観念信仰になってしまうものですが...
私が神の手に捉えられると言っている、私の思い、力を超えて全心全霊が揺すぶられるような経験...それが“人格的な神と出会う“と言い表しているものなのではないか?
それは、所謂精神的覚醒、宗教的回心と呼ばれるもので、そういう超越的なあるハタラキ無しには起こり得るものではありません。
非二元論を説く、ヒンドゥー教や仏教などでは、それは多く形無き“法“、非人格的なエネルギーなどとして語られるようです。そこには、実存的な響きというものはあまり感じられません。だから人間の個我性も否定的に説かれたりするのでしょう。
しかし、そこでもアートマン(真我的なもの)のことは説かれているのです。
人格神を説くキリスト教的西洋、非人格的な何ものかを説くインド的東洋...私は、そこに互いのその慣用的表現に迎合してしまう傾向を感じてならないのです。
要するに我々は皆神のことも、自己のことも何も分からないということを物語っているのでしょう。
日本人である私には、どっちでもいいような問題なのかも分からないが...(東洋の宗教では実存ということはあまり言わないが)古今東西の如何なる宗教、精神的な道でも、自己ということを問題にしないものは無いのではないでしょうか?
自己は、考えられている自己だけでは決して解明されるものではありません。
それを超えたもの無しには!...神に人格があるかどうかは、分からないのだから問題になりません。
人格、実存の問題は、自己は、神的なものと切り離すことが出来ないというところに求められるものでしょう。神と真我は切り離すことが出来ない!...
それは、抽象概念でなく、具体的に解明されるべきものであるはずです。
神に人格があるのでも、個々の人間存在に人格があるのでもありません。
それは、我々が我々を超えたものに具体的に出会った時に、それが自己の内奥に差し込んだ時に明らかにされるものでしょう!...
頭では分からなくても、全身が震えるようにも!...





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