多くの覚醒経験者は、"この世のことは、全て幻想、夢だった..."と言います。
覚醒というのは、まさに夢から覚めるようなことを言い表しているのです。
しかし、何故幻想、夢だと分かるのでしょう?
幻想でない、疑うことが出来ないリアリティというものに出くわすからですね。
そのリアルなものとは、どこから感じられるのでしょうか?
この世があまりにも幻想でいっぱいだからではないでしょうか?
幻想とリアリティというのは裏表のものですね。
真実に預かってない人というのは、夢なのに夢と感じてない眠れる人なんでしょうか?
でしたら日々の生活にあくせくしてる、夢みる人たちにこう訊いてみたらいいでしょう。
"早く夢から覚めて、真実に目覚めなければなりませんi"と...
きっと、"夢みたいなこと言ってないで、ちゃんと働けi"と言われるのがオチでしょう(笑)
この世が全て幻想だったら、フツーの社会人のように、マットウに生きるのがバカらしくなってくるでしょうか?
マットウに生きているとはけっして言えない私が言うのもなんですけど、著名なスピ系ブロガーには、こうした空気が伝わってくるものもあるようです。
幻想だったら、たとえ日本に核ミサイルが飛んできたってどおってことないですか?
今わの際に迫る危機の前には、フツーでいられないのも疑うことが出来ない事実でしょう。
全く取るに足らないようなことでも、映画やドラマを観てて"あれはねえ、スクリーンに映し出されてるだけなんだよー"と、分かっちゃいるんだが、感動の涙があふれてくるのも事実でしょう。(それとも悟った人は涙も枯れてしまうのか? アーメンi)
"人生の裏側にのみ真実があって、表側は幻想でしかない"で、終わらすことが出来るでしょうか?
私は物心ついた時から、この生きている現実にリアリティーというものを感じていなかったのです。
それが夢のように感じられたのは、"どこかにこの現実と別なる疑えない現実というものがある"と感じていたからです。
この事を幼い頭で問題にしてたら全くどうにかなりそうでした。そう、意識が遠退いて行くような...
意識的でか無意識でか、ただただSOS発信をするしかありません。
すると...いつのまにか"私はここにいるよ"という声なき声とともに、現実を取り戻すことが出来たのです。
よくよく考えてみたら、私の人生では、こういうことが繰り返し起きているのです。
取り戻された現実、リアリティというものは、こうしたものです。そこには愛、平安があります。
それは夢の中で、目覚めた状態(これは日常のこと)にもまして強く感じたこともあり、覚めた後にもしばらく続いていたこともあります。
私には、どうしてもどちらかが真実で、どちらかが幻想と片付けてしまうことが出来ないのです。
もし、この世が幻想だとして、どうしてここに生まれ落ちてしまったのでしょうか?
そういう個人も幻想なのか? だとしたらそう在らしめているものも、宇宙的全体というものも幻想でしょう。
このリアリティには表も裏も無いのです。
普遍世界も相対世界もまるごとの世界を貫いているのです。
自我だろうと真我だろうと、まるごとの私がそれに預かっているのです。
リアルな現存あるところ、すべてが"ここ"になり、"私が在る"のです。
この世は本当に、バカバカしいこと、幻想に溢れています。
悪夢であってほしいことばかり...
しかし、黒雲を破って朝日が立ち上ぼり、周りを照らし出すように、幻想と思われたものが、別様に化されていくことにましてリアルなものを浮き彫りにさせるものはありません。
ジャリを敷き詰めた我が家の庭にも又この秋可憐な花が咲きました...。
覚醒というのは、まさに夢から覚めるようなことを言い表しているのです。
しかし、何故幻想、夢だと分かるのでしょう?
幻想でない、疑うことが出来ないリアリティというものに出くわすからですね。
そのリアルなものとは、どこから感じられるのでしょうか?
この世があまりにも幻想でいっぱいだからではないでしょうか?
幻想とリアリティというのは裏表のものですね。
真実に預かってない人というのは、夢なのに夢と感じてない眠れる人なんでしょうか?
でしたら日々の生活にあくせくしてる、夢みる人たちにこう訊いてみたらいいでしょう。
"早く夢から覚めて、真実に目覚めなければなりませんi"と...
きっと、"夢みたいなこと言ってないで、ちゃんと働けi"と言われるのがオチでしょう(笑)
この世が全て幻想だったら、フツーの社会人のように、マットウに生きるのがバカらしくなってくるでしょうか?
マットウに生きているとはけっして言えない私が言うのもなんですけど、著名なスピ系ブロガーには、こうした空気が伝わってくるものもあるようです。
幻想だったら、たとえ日本に核ミサイルが飛んできたってどおってことないですか?
今わの際に迫る危機の前には、フツーでいられないのも疑うことが出来ない事実でしょう。
全く取るに足らないようなことでも、映画やドラマを観てて"あれはねえ、スクリーンに映し出されてるだけなんだよー"と、分かっちゃいるんだが、感動の涙があふれてくるのも事実でしょう。(それとも悟った人は涙も枯れてしまうのか? アーメンi)
"人生の裏側にのみ真実があって、表側は幻想でしかない"で、終わらすことが出来るでしょうか?
私は物心ついた時から、この生きている現実にリアリティーというものを感じていなかったのです。
それが夢のように感じられたのは、"どこかにこの現実と別なる疑えない現実というものがある"と感じていたからです。
この事を幼い頭で問題にしてたら全くどうにかなりそうでした。そう、意識が遠退いて行くような...
意識的でか無意識でか、ただただSOS発信をするしかありません。
すると...いつのまにか"私はここにいるよ"という声なき声とともに、現実を取り戻すことが出来たのです。
よくよく考えてみたら、私の人生では、こういうことが繰り返し起きているのです。
取り戻された現実、リアリティというものは、こうしたものです。そこには愛、平安があります。
それは夢の中で、目覚めた状態(これは日常のこと)にもまして強く感じたこともあり、覚めた後にもしばらく続いていたこともあります。
私には、どうしてもどちらかが真実で、どちらかが幻想と片付けてしまうことが出来ないのです。
もし、この世が幻想だとして、どうしてここに生まれ落ちてしまったのでしょうか?
そういう個人も幻想なのか? だとしたらそう在らしめているものも、宇宙的全体というものも幻想でしょう。
このリアリティには表も裏も無いのです。
普遍世界も相対世界もまるごとの世界を貫いているのです。
自我だろうと真我だろうと、まるごとの私がそれに預かっているのです。
リアルな現存あるところ、すべてが"ここ"になり、"私が在る"のです。
この世は本当に、バカバカしいこと、幻想に溢れています。
悪夢であってほしいことばかり...
しかし、黒雲を破って朝日が立ち上ぼり、周りを照らし出すように、幻想と思われたものが、別様に化されていくことにましてリアルなものを浮き彫りにさせるものはありません。
ジャリを敷き詰めた我が家の庭にも又この秋可憐な花が咲きました...。