人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

意識の中心

2017-10-15 11:29:38 | 意識、照明
"意識の中心はどこにあるのか?"

さあ ...分かりません。
だから、私はここでそういうことを書こうという訳ではありません。
何度か触れているように、意識はある中心へと収斂されていく、ということは知らされています。
意識を意念をもって、例えばどこかのチャクラに集中しようとする前に、自ずから吸い寄せられるように、その見えない中心に集められるのです。
精神は集中しようとしなくても、集中されるのです。
思いを超えようとしなくても、思いを超えたものが先にある。
その中心にあるのは、愛、平安 ...それが充ちた内的領域がリアリティをともなって生まれる。"現臨"
内的というも、自分の中に中心があるというよりも、中心に包まれているという感じです。

見えない導きと言いますが、要するに磁力に引き付けられるように、この中心に意識が赴かれるということです。
たとえどんな高遠そうな教え、メソッド...如何に綺羅びやかな世界へと誘うようなことが謳っていても、そこに中心が感じられなければ、身が頷く事はありません。
時に賢そうで、愚かな頭の方が実益的なもの、好奇をそそるもの、人目を意識したプライドなどに目が繰らんで騙されることはあっても...
何でも知ってるつもりの頭よりも、身の方がはるかに中心のことが分かっているのです。
そして、中心に導かれる、意識が赴かれるということは、意識付けられるということです。
意識に浸透していくのです。
これが"身的な記憶"となるのです。"身に覚える"

中心はニュートラル.ポイントです。
相対的なジャッジなどが入り込むことは出来ません。
善悪を超えて、中心から光が差し込み、ありのままを照らし出します。
到底そんな光を受けるに値しないなどと、頭でジャッジしていたものが、到底動かし難く心根にこびりついていた、と感じられていたものが、あれよあれよという間に明るみに出され、心根から離されてゆきます。
ドス黒く、ヘドロモドロしたものと思われていたものも、愛と平安のうちに、愛しいとさえ感じられるものへと化されてゆく...
"おお、それも今日ここにそのことを気付かされるために必要なことだったのだ"

意識の中心は"ここにある、どこそこにある"、ということは言い得ません。
どこか特定出来るようなところに、その中心を見出だすことが出来ません。
しかし...意識の中心あるところ、至るところがそうなります。
例えば、一体全体何について書いているのか、サッパリ分からんようなブログがどっかにあったりして...
読み方次第によっては、焦点の定まらない中にも、至るところにその中心らしきことが、感じられる...かもしれない。
もっとも書いている人はいつも取り付くシマのないことを言っていますが...
"中心は掴むことが出来ない...掴まえられるものだ"


コメント
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