人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

...の如きもの

2018-09-16 11:17:40 | 仏教関連
宗教やスピの周囲には、ありとあらゆるトラワレで溢れかえっています。
トラワレから解放したいがために、それらを求めたはずではなかったのではありませんか?
正しい生き方、神サマ、教え、修行法...前世や死後の世界や超能力...
"有るのか、無いのか分からないものにトラワレるのは迷いだ...どこにも常なるものは無い...定まったものなど無い..."と説いたとされるのがゴータマ.ブッダでした。
しかし、仏説として当たり前のように信じられているものに、"執着を捨て、煩悩を断てば涅槃の境地に至れる"というものがあります。
世の中の通念としてでなく、これを自分の問題として思い浮かべてみて下さい。
(ブッダが何を言ったとか、聖典に何が書かれているか、ということで無しに、自分自身のことからでなければ何も始まりません)
このこと自体が大いなるトラワレだとは感じてきませんか?
人間離れした強靭な意志の持ち主でなければ、そういう境地に達することが出来そうにありません。
こうした通念が広まったのは、部派仏教が成立した以降とも言われていますが、おそらくたゆまぬ修行と結び付いたものなのでしょう。
一体、涅槃とは何だろうか? そんなに特殊な境地なんでしょうか?
そこには私というものが無く、全体しか無いのでしょうか? ブッダは何も明言などしてません。
ブッダが言う"無我"というものは、有るとか無いとか決まった我など無い、といったものではないでしょうか?
所謂ブッダの教説というのは、このように定見、定説に行き着かないようなものばかりです。
だから..."これがブッダの真説だ"というものは、ことごとくが"仏説にあらず"ということになりそうです。
世の中に"これが真理"というものなど何も無いi "真の如きもの"があるばかりということではないでしょうか? "真如"。
涅槃には安らぎがあるのだと言う...ああでもない、こーでもない、という諸々の思いから解放されたなら、正しくそれに与れる...かもしれない...
少なくともそれはあなた自身がそう感じ、確かめなければならないことでしょうが...
トラワレからの解放って...どういうこと? どうやって? とこれ又、自分の思いだけで決着をつけようとすると、迷いの堂々巡りを繰り返すばかりですよね。
トラワレは迷い、苦しみを生み出すもの...この自覚あるところ、"来るべきようなもの"の予感があるのです。
"迷い、苦しみの牢獄にある、この私にその自覚がもたらされたi それはガンジガラメにトラワレたこの思いから来るのであろうか?
そうではあるまいi 解放をもたらすものは、来るべきようなものなのだi" "如来"。
如来という呼び習わしは、おそらく大乗仏教の成立以降のことでしょうが、実にその名状し難い、形なき命が我に顕わになることと、トラワレの解放とは一つのことという示唆があるのです。
"涅槃に導くものもこのもの...なのかもしれない? 何も無いのが安らぎなのか、このものと共にあるのが安らぎなのか?
それはこの上無いものなのだろうか? いや、それは世の人が"これこそは無上の真理"と言って、迷い続けているものの外にあるのではないか?"

世の中には真の如きもの、悟りや救いの如きものしかないのです。究極の真理はあなた自身にしか開けないでしょう。







コメント (2)
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