今朝、ふとあるはずのお金が無くなっていることに気が付きました。
"んもう、何だって月末に限ってこんなことが起きるんだよおi ああ、もうこれで今日の不幸な一日確定i..."
と、五分間くらい、いつものドタバタ劇場をやっていたんですが、"あ、そうだ、あっこのメシ屋で釣り銭取り忘れていたんだ! ややこしい券売機めi"と気が付き、無事に何百円という"大金"を取り戻すことが出来たのです。そしてささやかな今日の幸福な一日?も...
このブログにいつも熱心にコメントを下さる苦集滅道さんが、ご自身のアメーバブログで「幸せとは容易である」というテーマで、書かれておりますが、まっことにその通りだと思います。
自分が自分であることで、生きて、生かされていることで幸福でない訳がありません。
このことに関して、人生には幸福もあれば、不幸もあるものだとフツーに思われていますね。
しかし、その"どっちかしかない"ってことは多分無いでしょう。
じゃ、どっちでもない時、どうなっているかというと...幸福なのではないでしょうか?
苦集滅道さんが「苦が無い時は、幸せとも思考に上らない幸せの中にいます」と言われる通りです。
これが何にも無いのに幸福であること...立ってても、寝てても幸福、自分がどうこうでなくとも、小鳥がさえずり、子猫が鳴いているだけでも、夕日が美しいだけでも幸福なことなのです。
これは"得られなければならない"、"そうならなければならない"、世の人が"そうである"と言っている幸福に囚われていたら、気付けない本来的な幸福のことです。
その幸福を感じている自分が居なければ、"自分にとって"の幸福が無ければ、そも幸福なんてものはどこにもありません。
不幸というものも勿論そうなのですが、このことからそれは、ひっきょう"不幸な思い"ということに気が付きます。
"あん時は苦しかった、悩ましかった"と不幸な日々を思い返してみると...正に不幸な日々、不幸な一日があったかのように思えてきます。
しかし、朝目覚めてから、夜眠りにつくまでずっとそんな状態になっていたでしょうか?
確かに私も思いががんじがらめになって、うつ病みたいになったこともあります。
それでもその間、心の隙間に涼風が吹きこんだことも、そこから憂愁(これは私には、固有に強く根付いている幸福感とつながっています)を呼ぶ夕日を見ていたこともあったのです。
そのことは、この本来的幸福を身に覚えて(これは表層的思いに比して、より身体的と言ってもいいかもしれません)いることにより、際立ってきます。
そして表向きの幸、不幸の事態に関わらず、ずっと私の深部にこの原初的幸福が貫いていることが知られるのです。
それはしかし、中々人生の表側には上って来ることがなく、気付かないものであるのも事実です。
知らず知らずに不幸、苦難に襲われ、覆われてしまうのも人の世の常というもの...
それでも幸福であることは容易いことですi "現臨に意識を向ければよろしいi"(出たi マジックワードi)...いや、神に祈る、最善、最愛のものに思いを向ける、一番幸福だったことを思い出す...(意識とか思いの違いとか難しいこた言いません)
"そんなんでどーにかなるのか?"...ウソのようにどうにかなってしまったことは、私にはしょっちゅうあります。
意識の表層とか深層とかを超えて、原初的なものが、立ち上ってくるのです。これはもっと包括的なハタラキと言ってもいいでしょう。
そして本来的な幸福をさらに際立たせるものです。
まあ、それも不幸や苦悩というものがあるから、感じるものではありますが...それもこれも本来的に幸福ってことなんでしょう。
"んもう、何だって月末に限ってこんなことが起きるんだよおi ああ、もうこれで今日の不幸な一日確定i..."
と、五分間くらい、いつものドタバタ劇場をやっていたんですが、"あ、そうだ、あっこのメシ屋で釣り銭取り忘れていたんだ! ややこしい券売機めi"と気が付き、無事に何百円という"大金"を取り戻すことが出来たのです。そしてささやかな今日の幸福な一日?も...
このブログにいつも熱心にコメントを下さる苦集滅道さんが、ご自身のアメーバブログで「幸せとは容易である」というテーマで、書かれておりますが、まっことにその通りだと思います。
自分が自分であることで、生きて、生かされていることで幸福でない訳がありません。
このことに関して、人生には幸福もあれば、不幸もあるものだとフツーに思われていますね。
しかし、その"どっちかしかない"ってことは多分無いでしょう。
じゃ、どっちでもない時、どうなっているかというと...幸福なのではないでしょうか?
苦集滅道さんが「苦が無い時は、幸せとも思考に上らない幸せの中にいます」と言われる通りです。
これが何にも無いのに幸福であること...立ってても、寝てても幸福、自分がどうこうでなくとも、小鳥がさえずり、子猫が鳴いているだけでも、夕日が美しいだけでも幸福なことなのです。
これは"得られなければならない"、"そうならなければならない"、世の人が"そうである"と言っている幸福に囚われていたら、気付けない本来的な幸福のことです。
その幸福を感じている自分が居なければ、"自分にとって"の幸福が無ければ、そも幸福なんてものはどこにもありません。
不幸というものも勿論そうなのですが、このことからそれは、ひっきょう"不幸な思い"ということに気が付きます。
"あん時は苦しかった、悩ましかった"と不幸な日々を思い返してみると...正に不幸な日々、不幸な一日があったかのように思えてきます。
しかし、朝目覚めてから、夜眠りにつくまでずっとそんな状態になっていたでしょうか?
確かに私も思いががんじがらめになって、うつ病みたいになったこともあります。
それでもその間、心の隙間に涼風が吹きこんだことも、そこから憂愁(これは私には、固有に強く根付いている幸福感とつながっています)を呼ぶ夕日を見ていたこともあったのです。
そのことは、この本来的幸福を身に覚えて(これは表層的思いに比して、より身体的と言ってもいいかもしれません)いることにより、際立ってきます。
そして表向きの幸、不幸の事態に関わらず、ずっと私の深部にこの原初的幸福が貫いていることが知られるのです。
それはしかし、中々人生の表側には上って来ることがなく、気付かないものであるのも事実です。
知らず知らずに不幸、苦難に襲われ、覆われてしまうのも人の世の常というもの...
それでも幸福であることは容易いことですi "現臨に意識を向ければよろしいi"(出たi マジックワードi)...いや、神に祈る、最善、最愛のものに思いを向ける、一番幸福だったことを思い出す...(意識とか思いの違いとか難しいこた言いません)
"そんなんでどーにかなるのか?"...ウソのようにどうにかなってしまったことは、私にはしょっちゅうあります。
意識の表層とか深層とかを超えて、原初的なものが、立ち上ってくるのです。これはもっと包括的なハタラキと言ってもいいでしょう。
そして本来的な幸福をさらに際立たせるものです。
まあ、それも不幸や苦悩というものがあるから、感じるものではありますが...それもこれも本来的に幸福ってことなんでしょう。