人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

思いを超えるということ

2019-06-04 11:46:11 | 祈りと瞑想
宗教やスピを歩む上で、ごく基本的なこととされていることは、思考、マインドから離れるということですね。
これは禅や瞑想などに取り組み、いつも雑念と戦っている方なら当たり前に分かることです。
思念から離れなければ、本心、神的なものは開かれてこない訳で、それには思いというものと、それを超えたものとの際というものが示されないとならないのです。
そこで、修行法には思考から離れる工夫がいくつか存在しています。
私が知っているものでは、五井先生が説く所謂"消えてゆく姿...出てゆく思いは消えてゆくのだ"、と観じて行く、ある種の観法(?)があります。
又これと似ているもので、最近youtubeが公開されている、瞑想指導者、金井系一郎先生が伝えている元波動瞑想(いつの間にか"金井メソッド"とも呼ばれるようになった)の"出てきた思いを切って捨てる"という"メソッド"があります。
私は実は大体"行"というもの自体、あまり真剣に打ち込んだことが無いのですが、だからかも分かりませんが、こういう観法を本当に分かって、得心して実習した覚えは一度もありません。
というか、どうにもその"思いが消えてゆく"とか"思いを切って捨てる"という感じが掴めないのです。
金井先生に直接そのことについてお訊きしたことがあるのですが...「そんなの簡単じゃないですか、思いが出てきたら考えるのをやめたらいいんですよ」と、実にアッサリした答えが返ってきました。
して、"へっ、考えるのをやめると❬思う❭の?"とか考えてしまいました(笑)
これでは思いから離れようとして、思いの無限ループにハマるようなものですね。思念から離れることに思念で捉えてはならないのです。
こういうメソッドで上手く行く人はそれでいいでしょう。
じゃ、私のようにすぐに思念の蜘蛛の巣に捉えられてしまう人には...
思念を超えたもの自体が面倒を見てくれますi これが現臨と呼んでいるものです。
もう、思念を離れようとか、超えようとか"思う"必要がありませんi そのものが臨むことにより思いは勝手に離れて行くのです。
思いを超えたものと共にあるからそうなるのです。こりゃあ得心出来るi
これはもう、瞑想する上での工夫といったようなものではありません。
このことに限らず、もう"瞑想や祈りをする人"を超えて、ただそのものにある、という感じになります。
実にこの現臨の召喚というもの抜きに何の修行かと言いたいですi
五井先生はこの"消えてゆく姿"から思いを"神様の中に入れてゆく..."とつなげて説いているのですが、「思いは神様が消してくれるのです」という言葉に留意する必要があるでしょう。
そうでないと、自分の思いで思いを消してゆくという、念的なものが強まってしまうか、そういう観法自体が思念に絡まれて、観念化してしまうのではないでしょうか?

神的なものとの一体を求めるという...
それには諸々の思いから離れなければならないという...
神はホントに、ホントに思いを超えている...どうやって離れるかよりも、神に思いを到せば、いつのまにか何だか自由に、ラクになってきた...
ホラ、思いは超えられているではないかi

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする