人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

私は何も出来ない

2021-10-17 09:40:47 | 祈りと瞑想
私はねえ、神的なもの、現臨を呼び込むことが出来るんですよi...なーんて...
人からもそういう風に言われたことありますが、出来た試しなどないですよi
これは私が出来る、出来ないって話じゃないのですi
そのものがそう在らしめる、そのもの在ってのことであり、このことは肝に銘じられていることなのです。(何に、誰から?、ってことでもなくて、自然とそういう促しを受けているのです)
現に一昨年の晩秋、突如その感覚が失われてしまうようになった時、その回復を望もうにもどうすることも出来なくなってしまうのですよ。
どうやってそういうものに与ったか、分からないのだから...そう、これは"与っている"、ということがすべてを物語っているのです。
しかしですね...そこには逆説的奥義というか、方法ならざる方法、道なき道というものもあるのですよ...私はいつも"秘儀"(!?)を公開してるつもりなのですが...
私は特別な方法によって与ったことは無かったし、そういうものがあったとしても、それに則ろうという気が起きてこないのです。(ほんの一寸かじった程度ありましたが、やる気も続かないし、何かが開かれるという感じがしてきません)
だって、私何も出来ませんもんi..."わおi"...こういうことを意識した途端、パッと何がが開かれてくる、臨んでくるではないかi
こんなライブ的、即応的な方法なんてあるでしょうか?...しかし、これはそんな方法なんかではありません。
"私は何も出来ないi"...だから私を超えたもの、私を私在らしめるものに意識が向けられるのです。即、手放し、任せるっきゃない、ってことになってしまうのです。
自分が何かに取り組んで、少しもそういうものに与れる気がしてこない、ということにはこういう裏の事情があったのです。それは、思われた、出来る自分を頼んでいるということなのですから...
私は出来ないのだから、神的な現臨に頼まざるを得なくなり、あちらが臨んでこられるということが起きるのです。
肝心なことは、こういうことを書いたからといって、必ずそういうことになるなんてこた無いですよ。(必ずそうなるというのは、多くの人が群がる究極の方法とやらが謳っているような話です)
それは出来る(と思っている)自分がそう図ってるってことでしょ?
無くて元々なのです。だけど、真実に出来ない自分に意識を向ければ、それは同時に自分を超えたものに意識が向かう...何かが開かれるということが自然に感じられてこないでしょうか?...現臨を呼び込むというよりか呼ばれているi
何かある種のキリスト教か、浄土真宗とかの奥義を言っているような気もしますが、これは広い意味での祈りということになるでしょう。
と書いていて、祈らされている感じがしてくる...
どうしてそれに与れることになったかと言えば、ただ一つ祈っていたから、ということになるでしょうが、祈りというもの自体方法なき方法のようなものなのでしょう。
コメント
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