意識が”現臨にある”状態というものには、毎日毎瞬のようにあっても、習慣化とか惰性というものはありません。又、そうなったものを私は現臨にある、とは言わないのです。
思いが惰性になることはあっても、それを超えたものが毎回、現実に臨むからです。
その状態そのものは、思い返してみれば、40年ほど前、それが芽生えた頃と同じだ、と感じざるを得ません。
これは、その時も今もその現実に臨むもの、現存するものにあった(ある!)、ということであり、過去の時間の経過を超越しているということなのです。
だから、今もアリアリとそのことを思い起こされ、今それを感じることでそうなるのです。
しかし、当時と今と違うところは、その恒常性を欠いていたということが言えます。
その現臨にあった瞬間は、思いが超えられ、幸福感に満たされるのですが、それが過ぎると...そう、まさにそれは過ぎ去るもの...来ては去りゆく諸々の思いと同じように感じていたようなのです。
それは、思考の次元と意識次元の区別がつかなかった...その自覚が無い...つまりは、意識的になっていなかったということです。
極めつけは、始めてさらに神的なハタラキに捉えられ、純粋意識の次元に目覚めさせられたことも、数日で元の黙阿弥となり、過去のエポックとなって消えていったことです。
これも、ああいう目覚めの体験というものは、そういうものだ、と思い込んでいたからなのです。
固定観念というものが、如何に直接経験されたものに覆いをかけるものか!
とはいえ、体験したこと自体に固執するのは、思念なのであり、そうなれば消えた方がいいとも言えるのですが、本当は、そこで意識的にならなければならないのです。が...
思念、思考...自我の思いは常に、意識世界をその次元に取り込み、その世界と同一化を図ろうとするものです。
同一化された思いの中では、このことに気付くことが出来ません。
意識的にならなければならない、と言うこと自体、それを思い、やろうとする自我の思いかもしれないのですよ!...ああ、もう、ヤヤコシ!
これはだから、自己を超越したものに因らなければ、絶対に無理というものでしょう。
そのものに意識を向けていなければ、いつ思考マインドが、真の主体である純粋意識に取って代わるともしれません。
意識次元が開かれるということは、こっちが思いを、意識をどうこうするとか言うのじゃなくて、神が意識に臨む、ということなのです。
それは、神を待ち望む、という祈りから臨まれる!...だからだから、意識的になることは、意識を神に向ける、祈りと切り離せないのです!
いや、もう、逆説的に言えば、現臨というものなしでは、思いを超えなければならないと言って、何をどうしていいか、何から始めていいか、分からない感じになりますよ!
そのものが臨めば、分かる!...ゆだねるしかない!
これは、ここで自分でそういうことを書いて...否書かされているうちに、いつの間にか、いつも臨まれている感じに、恒常的になってしまったということなのです。
思いが惰性になることはあっても、それを超えたものが毎回、現実に臨むからです。
その状態そのものは、思い返してみれば、40年ほど前、それが芽生えた頃と同じだ、と感じざるを得ません。
これは、その時も今もその現実に臨むもの、現存するものにあった(ある!)、ということであり、過去の時間の経過を超越しているということなのです。
だから、今もアリアリとそのことを思い起こされ、今それを感じることでそうなるのです。
しかし、当時と今と違うところは、その恒常性を欠いていたということが言えます。
その現臨にあった瞬間は、思いが超えられ、幸福感に満たされるのですが、それが過ぎると...そう、まさにそれは過ぎ去るもの...来ては去りゆく諸々の思いと同じように感じていたようなのです。
それは、思考の次元と意識次元の区別がつかなかった...その自覚が無い...つまりは、意識的になっていなかったということです。
極めつけは、始めてさらに神的なハタラキに捉えられ、純粋意識の次元に目覚めさせられたことも、数日で元の黙阿弥となり、過去のエポックとなって消えていったことです。
これも、ああいう目覚めの体験というものは、そういうものだ、と思い込んでいたからなのです。
固定観念というものが、如何に直接経験されたものに覆いをかけるものか!
とはいえ、体験したこと自体に固執するのは、思念なのであり、そうなれば消えた方がいいとも言えるのですが、本当は、そこで意識的にならなければならないのです。が...
思念、思考...自我の思いは常に、意識世界をその次元に取り込み、その世界と同一化を図ろうとするものです。
同一化された思いの中では、このことに気付くことが出来ません。
意識的にならなければならない、と言うこと自体、それを思い、やろうとする自我の思いかもしれないのですよ!...ああ、もう、ヤヤコシ!
これはだから、自己を超越したものに因らなければ、絶対に無理というものでしょう。
そのものに意識を向けていなければ、いつ思考マインドが、真の主体である純粋意識に取って代わるともしれません。
意識次元が開かれるということは、こっちが思いを、意識をどうこうするとか言うのじゃなくて、神が意識に臨む、ということなのです。
それは、神を待ち望む、という祈りから臨まれる!...だからだから、意識的になることは、意識を神に向ける、祈りと切り離せないのです!
いや、もう、逆説的に言えば、現臨というものなしでは、思いを超えなければならないと言って、何をどうしていいか、何から始めていいか、分からない感じになりますよ!
そのものが臨めば、分かる!...ゆだねるしかない!
これは、ここで自分でそういうことを書いて...否書かされているうちに、いつの間にか、いつも臨まれている感じに、恒常的になってしまったということなのです。