何度か書いているように、私が言っている"人生の裏側"というのは、直ちに霊界といった領域のことを指している訳ではないのです。
霊界とか死後の世界のことは分かりません。私は霊能者でないので。
そうした周辺のことを所謂霊能力者たちは、さも見てきたように言葉に表して描写しているようですが、この点が単純に霊界と括ることが出来ない大きな理由で、どうにも言葉でその領域のことを説明することが困難なのです。
霊界とおぼしき世界のことは、スピ界のある面での常用語? エーテル界とかアストラル界というもので"説明されている"ようです。
又、相対的二元を認めない、ノンデュアリティでは、現実世界と同じく、この現実世界の雛型のような世界も幻想と見ているようです。
何を幻想と見るか? それは見る人によって違います。
生身の肉体を持った人間が"個人は居ない..."とか平然と言っていること自体が幻想に見えます(笑)
それが相対二元の真実ってものでしょう。
で、裏側のことですが、例えば"現臨に捉えられる"事態というのは、思考も超えてしまい、リアリティに充ちていることで、これが霊界ということで説明の出来る世界と異なることなのです。
ところで、私はいつも霊界というものを連想する、見えない裏側の世界にあたかも私が移行してしまったかのように言い表しておりますが、これはとても肝心なことで、この相対的現実で起きたことを言っているのです。
つまり、ここにずっと居ながら意識の変容に預かったことを伝えているだけなのです。
よくよく考えても、フツーに考えてもこの世のことを幻想と見たり、否定してしまう道理など無いのです。
この世に生を享けたからこそ経験出来ることなのです。
この世界が相対次元だからこそ、そこで示される普遍性、調和性というものが伝わってくるのでしょう。
それはこの相対的現実の中で、相対を超えた次元のものが切り込んでくることと言えます。
エーテル界、アストラル界、あるいは霊界、幽界とされる領域というのは(私は多く語ることが出来ないですが)、おそらく意識の異なった諸相のことを言い表していると思われますが、その位相に応じて、その相対を超えた絶対的リアリティとも言うべきものの発現があるのでしょう。
この事から我々のこの見える、見えない(霊界など)相対的現実というものは、相対を超えた次元と相即していると感じざるを得ません。
こうした消息は私は、「霊界物語」や「日月神示」などの神サマ情報に端的に感じとることが出来ます。
そこには霊界の様相が描かれていても、まったくこの現実世界の延長のような相対観が感じられるものもありますが、言葉を超えたあの神的リアリティを伝えているものもあるのです。
こうしたものは、我々に様々な位相があることを伝えているのでしょう。
それは時にトラワレの温床ともなるし、内なる神性を呼び覚ますものともなり、ミタマ相応のものが、それぞれの心性に映るものなのでしょう。
大事なことは、現界だろうと、霊界だろうと、あらゆる位相に、その原初的息吹きというものを感受するということではないでしょうか?
絶対次元のハタラキは、見える世界、見えない世界を超えて貫いているのです。そこに一貫した命、愛、調和があります。
"様々な諸相があって、一つのものが貫いている...そこに幻想のようなものもリアルに映じ、現実のようなものも夢に見えてくる...
そのものにあるところ、リアルなものが現存する..."
この意味で現界も霊界も無く、"この世界"しかないのではないでしょうか?
決められた幻想や現実があるのでは無いのです。
偏った、決めつけられた観方こそ幻想なのでしょう。
霊界とか死後の世界のことは分かりません。私は霊能者でないので。
そうした周辺のことを所謂霊能力者たちは、さも見てきたように言葉に表して描写しているようですが、この点が単純に霊界と括ることが出来ない大きな理由で、どうにも言葉でその領域のことを説明することが困難なのです。
霊界とおぼしき世界のことは、スピ界のある面での常用語? エーテル界とかアストラル界というもので"説明されている"ようです。
又、相対的二元を認めない、ノンデュアリティでは、現実世界と同じく、この現実世界の雛型のような世界も幻想と見ているようです。
何を幻想と見るか? それは見る人によって違います。
生身の肉体を持った人間が"個人は居ない..."とか平然と言っていること自体が幻想に見えます(笑)
それが相対二元の真実ってものでしょう。
で、裏側のことですが、例えば"現臨に捉えられる"事態というのは、思考も超えてしまい、リアリティに充ちていることで、これが霊界ということで説明の出来る世界と異なることなのです。
ところで、私はいつも霊界というものを連想する、見えない裏側の世界にあたかも私が移行してしまったかのように言い表しておりますが、これはとても肝心なことで、この相対的現実で起きたことを言っているのです。
つまり、ここにずっと居ながら意識の変容に預かったことを伝えているだけなのです。
よくよく考えても、フツーに考えてもこの世のことを幻想と見たり、否定してしまう道理など無いのです。
この世に生を享けたからこそ経験出来ることなのです。
この世界が相対次元だからこそ、そこで示される普遍性、調和性というものが伝わってくるのでしょう。
それはこの相対的現実の中で、相対を超えた次元のものが切り込んでくることと言えます。
エーテル界、アストラル界、あるいは霊界、幽界とされる領域というのは(私は多く語ることが出来ないですが)、おそらく意識の異なった諸相のことを言い表していると思われますが、その位相に応じて、その相対を超えた絶対的リアリティとも言うべきものの発現があるのでしょう。
この事から我々のこの見える、見えない(霊界など)相対的現実というものは、相対を超えた次元と相即していると感じざるを得ません。
こうした消息は私は、「霊界物語」や「日月神示」などの神サマ情報に端的に感じとることが出来ます。
そこには霊界の様相が描かれていても、まったくこの現実世界の延長のような相対観が感じられるものもありますが、言葉を超えたあの神的リアリティを伝えているものもあるのです。
こうしたものは、我々に様々な位相があることを伝えているのでしょう。
それは時にトラワレの温床ともなるし、内なる神性を呼び覚ますものともなり、ミタマ相応のものが、それぞれの心性に映るものなのでしょう。
大事なことは、現界だろうと、霊界だろうと、あらゆる位相に、その原初的息吹きというものを感受するということではないでしょうか?
絶対次元のハタラキは、見える世界、見えない世界を超えて貫いているのです。そこに一貫した命、愛、調和があります。
"様々な諸相があって、一つのものが貫いている...そこに幻想のようなものもリアルに映じ、現実のようなものも夢に見えてくる...
そのものにあるところ、リアルなものが現存する..."
この意味で現界も霊界も無く、"この世界"しかないのではないでしょうか?
決められた幻想や現実があるのでは無いのです。
偏った、決めつけられた観方こそ幻想なのでしょう。