人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現界も霊界も

2017-10-19 17:55:29 | 雑感
何度か書いているように、私が言っている"人生の裏側"というのは、直ちに霊界といった領域のことを指している訳ではないのです。
霊界とか死後の世界のことは分かりません。私は霊能者でないので。
そうした周辺のことを所謂霊能力者たちは、さも見てきたように言葉に表して描写しているようですが、この点が単純に霊界と括ることが出来ない大きな理由で、どうにも言葉でその領域のことを説明することが困難なのです。
霊界とおぼしき世界のことは、スピ界のある面での常用語? エーテル界とかアストラル界というもので"説明されている"ようです。
又、相対的二元を認めない、ノンデュアリティでは、現実世界と同じく、この現実世界の雛型のような世界も幻想と見ているようです。
何を幻想と見るか? それは見る人によって違います。
生身の肉体を持った人間が"個人は居ない..."とか平然と言っていること自体が幻想に見えます(笑)
それが相対二元の真実ってものでしょう。
で、裏側のことですが、例えば"現臨に捉えられる"事態というのは、思考も超えてしまい、リアリティに充ちていることで、これが霊界ということで説明の出来る世界と異なることなのです。
ところで、私はいつも霊界というものを連想する、見えない裏側の世界にあたかも私が移行してしまったかのように言い表しておりますが、これはとても肝心なことで、この相対的現実で起きたことを言っているのです。
つまり、ここにずっと居ながら意識の変容に預かったことを伝えているだけなのです。
よくよく考えても、フツーに考えてもこの世のことを幻想と見たり、否定してしまう道理など無いのです。
この世に生を享けたからこそ経験出来ることなのです。
この世界が相対次元だからこそ、そこで示される普遍性、調和性というものが伝わってくるのでしょう。
それはこの相対的現実の中で、相対を超えた次元のものが切り込んでくることと言えます。
エーテル界、アストラル界、あるいは霊界、幽界とされる領域というのは(私は多く語ることが出来ないですが)、おそらく意識の異なった諸相のことを言い表していると思われますが、その位相に応じて、その相対を超えた絶対的リアリティとも言うべきものの発現があるのでしょう。
この事から我々のこの見える、見えない(霊界など)相対的現実というものは、相対を超えた次元と相即していると感じざるを得ません。
こうした消息は私は、「霊界物語」や「日月神示」などの神サマ情報に端的に感じとることが出来ます。
そこには霊界の様相が描かれていても、まったくこの現実世界の延長のような相対観が感じられるものもありますが、言葉を超えたあの神的リアリティを伝えているものもあるのです。
こうしたものは、我々に様々な位相があることを伝えているのでしょう。
それは時にトラワレの温床ともなるし、内なる神性を呼び覚ますものともなり、ミタマ相応のものが、それぞれの心性に映るものなのでしょう。
大事なことは、現界だろうと、霊界だろうと、あらゆる位相に、その原初的息吹きというものを感受するということではないでしょうか?
絶対次元のハタラキは、見える世界、見えない世界を超えて貫いているのです。そこに一貫した命、愛、調和があります。
"様々な諸相があって、一つのものが貫いている...そこに幻想のようなものもリアルに映じ、現実のようなものも夢に見えてくる...
そのものにあるところ、リアルなものが現存する..."
この意味で現界も霊界も無く、"この世界"しかないのではないでしょうか?
決められた幻想や現実があるのでは無いのです。
偏った、決めつけられた観方こそ幻想なのでしょう。

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心象と現象

2017-10-18 17:58:47 | 回想
「霊界にあったことは現界に移写す」とは、出口王仁師初め、方々で述べられていることですが...

平成元年秋から暮れにかけて私は、ゾクゾクする思いで毎日「霊界物語」を拝読していました。
その時の国際情勢はと言えば、昨日の事のようにも、半世紀も前のようにも感じるのですが、東ヨーロッパ諸国に相次いで起きていた、共産主義体制の崩壊、バルト三国の独立など所謂東欧革命の真っ只中なのでした。
して...物語の10巻目辺りからは、いよいよスサノオを中心とした、霊主体従派の三五(あなない)教と体主霊従派のウラル教の神々の戦いは激烈を極めて行く様相を呈しておりました。(黄泉比良坂の戦い)
そして舞台はウラル教の本拠アルタイ山やコーカス山...スサノオ神団の言霊の威力の前に敵軍は続々と帰順して行くのでした...。
しかし、このまま霊主のスサノオ神政が樹立される訳もなく、唐突に大音響とともに黄泉島が沈没してしまうのです...。

その後、平成3年開けて早々、それはあまりにも唐突なニュースに私には映りました。
米軍のイラク空爆による湾岸戦争の勃発です。
"し、しまったあ..."一瞬私の脳裏にあることが過ったのですが、後の祭りです。
"黄泉比良坂 ...比叡山の辺りだろうか?" 当時、関西在住だった私は、前年の暮れにそのキナ臭い中東情勢の鎮静化を願いに、その近辺の神社にお参りに行こうと思い立ったのです。(これには大本で説かれていた、"日本は世界の雛型"という神秘説を基に、メソポタミア地方をその辺りにテキトーに比定してのことです。まあ、何でもいいのですが...)
ところがどの神社がいいのかと決めかねていたのです。どこでもいいから行きゃあいいものを...
そして、行く予定にしていたその日...朝から猛烈な寒風が吹き荒んでおりました。
おまけに風邪気味で体調が悪い様です。"無理して行くこたあないi 祈願に行ったところで、世界情勢がどうなる、こうなるなんてこたあ、誇大妄想の極みじゃあないかi...おお、寒、寒..." と、布団にくるまることを決め込んだのでした。
別にその事を引きずっていた訳でもないのですが、それまで世界が明るい方に開かれるような気がしていたものが、一気に閉ざされてしまったようで、急に私の世界が黒いものに覆われた感じになったものでした。
それから月日は経って平成15年春、今度は第二次湾岸戦争が起きていました。再び私の世界に何か覆いが掛けられている気分が取り巻いていました。
又もや私は、鎮静化祈願を思い立ちました。今度は目的の神社は決まっていました。
京都の貴船神社です。コンコンとたたえる清流が心地よい古社で、祭神タカオカミは水のハタラキを司り、"戦火を静めるに効験あり"という情報を私は得ていたのです。
今回は"何が何でも、嵐になろうと、ミサイルが飛んでこようと行くのだi"という決意をもってそこへ赴いたのでした。
祈願を終えた後のことですが、"何かが抜けた、開けた..."という、何か覆っていたものが、急速に取り払われたように感じたのでした。
そして、帰ってきて飛び込んできたのは、湾岸戦争終結のニュース...

こういった話というのは、何か神秘なる意味があるのか、あるいは見えない裏側のことが表に移写していることを伝えているのか、どうかは分かりません。
私はただ起こったこと、心象に浮かんだことを記しているだけのことです。
狂信的に神秘めいた話に結びつけて、信じ込む必要も無く、なるべく常識から外れない心性を持ち続けるべきかと思いますが、私はフト心象に感じる時は感じることもあるし、感じて行動してみたくなった時は、行動したりします。
それ以上のこと、考えても分からないことは、思いを超えたものに預けるだけです。
それが"左のことを右に知らせない"生き方なのです。





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霊界物語の真相?

2017-10-16 13:34:21 | 人生の裏側の図書室
こないだ某千恵袋を覗いてみたら、こんな質問が寄せられていたのが目に留まりました。

「霊界物語は信憑性がありますか?」

もう何年も前に寄せられたものであり、あまり表に出たがらない性分ゆえに、この場でちょっと感ずるままに、それについて書いてみたいと思うのであります。
霊界物語とはご存じのように、出口王仁三郎師が表した80数刊にも及ぶ空前絶後の大著述のことです。
この質問に対する結論を言えば、信憑性などありませんi
信憑性など求める方が間違っているとも言えるでしょう。
何故ならば"物語"と謳っているからです。ハナっからフィクションとして描かれているのです。
何を隠そう私はこの著を全巻読破したことがあるという、ヒマ人であり、物好きなんですが、二十数年前、古書店で安く入手出来た(そのセットには何故か何冊か欠本があったのがその理由で、その数冊は既に持っていたので、ほとんどダブりが無かったのです)ことからこの出口の無い運命へと踏み込んでしまったのです。
この著述には、「最後の審判の書」とか「数多の予言が...はた又一厘の仕組みが秘されている」とか、如何にも物好きな人間の関心をそそらずに置かないフレコミがまとわれており、私もつい、"20世紀が終わらないうちに読んどかなければ、大峠を越すことは出来まい..."といった観念に取り付かれたか、"一行たりとも疎かに読むまじ!"と意気込んだものの...
数分でそんなものは潰えてしまうのでした(笑)...
こんなべラボーな分量のものを読み込むってことは、さぞかし脳ミソに神智、妙智らしきものが蓄えられるのかと思いきや、ほとんど覚えちゃいませんi(笑)
それもそうでしょう。これはあくまで物語なんですからね。
ここには太古の神の因縁、神代の人間世界の諸相というテーマも基調として描かれていますが、同様のことを記したものでこの著述と同時代には、ブラバッツキーの「シークレット.ドクトリン」、シュタイナーの「アーカーシャ年代記より」などが知られ、最近ではまんだらけ関係から「宇宙全史」というのも出てきています。
私はこれらについて信憑性を求めようという気など更々無い(当たり前でしょう!)ですが、一方的に妄言、妄説と決めつける気もありません。
ただ、この真偽の確かめようのない話をそのまま鵜呑みにして、信じ込んでしまう向きこそは、おおよそ知性も教養も無い、世迷い事と思わざるを得ません。
神代のことは、ギリシャ、インドなど各国に伝わる神話、我が国では古事記(霊界物語はこの真解書とも言われる)、など、いずれもそれは神話物語として描かれているのです。
それは史実、歴史とは違うのですi そこに信憑性など持ち込むというのがオカシイのですi
そこには現代の我々の意識構造とは、根本的に違う、思われた時間、空間と異なる心象世界を窺う事が出来ます。それを「霊界」というもので表現されているのでしょう。
客観的現界にはそれ相応の理解が必要であり、霊界にはそれ相応の"象徴的理解"とか、アプローチが必要なのです。
内的心象のことは、その領域に留めておくことが肝心なのです。"左に知ったことを右に伝えるなかれ"(我が家訓?)です。
この理が弁えられず、混同すれば自他共に混迷に陥るばかりでしょう。

実は霊界物語が表された頃というのは、「竹内文書」などの超太古史、日ユ同祖論など数多の異種古代史が世に出されていたのですが、いずれも霊界的な太古の事相に客観的史実を適応させるような目論見を十分に感じさせるものなのでした。(これがパラノイアの温床となる)
霊界物語の登場はこれらの古代妄想傾向や、ことに当時大本教に吹き荒れていた短絡的な予言への盲信を意識して出されたもののように、私の心象には映っております。



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意識の中心

2017-10-15 11:29:38 | 意識、照明
"意識の中心はどこにあるのか?"

さあ ...分かりません。
だから、私はここでそういうことを書こうという訳ではありません。
何度か触れているように、意識はある中心へと収斂されていく、ということは知らされています。
意識を意念をもって、例えばどこかのチャクラに集中しようとする前に、自ずから吸い寄せられるように、その見えない中心に集められるのです。
精神は集中しようとしなくても、集中されるのです。
思いを超えようとしなくても、思いを超えたものが先にある。
その中心にあるのは、愛、平安 ...それが充ちた内的領域がリアリティをともなって生まれる。"現臨"
内的というも、自分の中に中心があるというよりも、中心に包まれているという感じです。

見えない導きと言いますが、要するに磁力に引き付けられるように、この中心に意識が赴かれるということです。
たとえどんな高遠そうな教え、メソッド...如何に綺羅びやかな世界へと誘うようなことが謳っていても、そこに中心が感じられなければ、身が頷く事はありません。
時に賢そうで、愚かな頭の方が実益的なもの、好奇をそそるもの、人目を意識したプライドなどに目が繰らんで騙されることはあっても...
何でも知ってるつもりの頭よりも、身の方がはるかに中心のことが分かっているのです。
そして、中心に導かれる、意識が赴かれるということは、意識付けられるということです。
意識に浸透していくのです。
これが"身的な記憶"となるのです。"身に覚える"

中心はニュートラル.ポイントです。
相対的なジャッジなどが入り込むことは出来ません。
善悪を超えて、中心から光が差し込み、ありのままを照らし出します。
到底そんな光を受けるに値しないなどと、頭でジャッジしていたものが、到底動かし難く心根にこびりついていた、と感じられていたものが、あれよあれよという間に明るみに出され、心根から離されてゆきます。
ドス黒く、ヘドロモドロしたものと思われていたものも、愛と平安のうちに、愛しいとさえ感じられるものへと化されてゆく...
"おお、それも今日ここにそのことを気付かされるために必要なことだったのだ"

意識の中心は"ここにある、どこそこにある"、ということは言い得ません。
どこか特定出来るようなところに、その中心を見出だすことが出来ません。
しかし...意識の中心あるところ、至るところがそうなります。
例えば、一体全体何について書いているのか、サッパリ分からんようなブログがどっかにあったりして...
読み方次第によっては、焦点の定まらない中にも、至るところにその中心らしきことが、感じられる...かもしれない。
もっとも書いている人はいつも取り付くシマのないことを言っていますが...
"中心は掴むことが出来ない...掴まえられるものだ"


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全ての私を照らす光

2017-10-14 11:47:43 | 意識、照明
多くのスピ関連では、自己観察、自己観照というものを重視しています。
端的に言うと、ありのままの自分を見つめるということですね。
私はしかし、これまでほとんどそういうことをやってこなかった、と言ってもいいのです。
もっとも、そう意識しないで、やっていたのかもしれません。いや、やらされていたと言うべきか?
この事が"意識された"のは、二年前の今頃、たしかそれを重視していた故.エンライトさんのブログを読んでからだったと思います。
同じ頃、近くの公園で暖かい日差しを受けながら、無為的な祈りとも瞑想ともつかないことに浸っていた時、突如"おおっi...こ、これは..."と電撃のように閃くものがあったのです。
"私は自分で観照ということはようしなかったけど、観照は受けていたではないかi"
この形なき祈りモドキというのは、意識のちょっとした動き(人為的な意念を加えないことが肝心)でそれに応じた感じ方に導かれるのです。
見えざる光にありのままの自分が照らされるように("光の玉が見えてきました..."とか、そういうイメージを人為的に頭に描くことではない)パッと意識されると、パッとそういう風になるのです。これは実際にそうした全てを透し、貫くような照射を受けたことがあるのを身に覚えているからそうなるのです。
"自分で自分を見つめる"って、フツーに言われるけど、実際にやろうとしても難しいものです。
そこで例えば自我と真我とを見極めようとか、するんでしょうけど、やろうとしているのはきっと自我でしょう?
マインドを超えたものを見い出そうとするんでしょうけど、きっとマインドがそうしようとしているんです。
それに、ありのままの自分というのは、ダメだったり、罪深かったりする、向き合いたくも、受け入れたくもない自分のことでもあるのです。
マインド、自我にとってこれを受け入れることが何よりも嫌なことなのです。
罪の意識が強い人は、通常その忌み嫌う自分を見ないことにし、否定し、フタ閉めしようとします。そしてダメでない、善なる、光ある自分に肖ろうとします。
それはしかし、自分の"かくあれかし"と思い描いている夢想の自分であり、全くありのままの自分ではありません。
フタ閉めされた、闇の自分にはずっと光が当てられることがなくなります。
その闇の部分は自分の外側へと投影され、サタンとか、悪い宇宙人とか実在性の分からないものか、ユダヤ人や金融やフリーメーソン、あるいは気に食わない隣人など、実在するものに向けられます。今、世界ではそうして拡散された闇の思いで充満しているようです。
ここにおいては自己は、思い込みによって善悪の観念などで分裂され、トータルな自己というものを見い出されることがありません。
真我というものは、正しくありたい人が思い描いているように、果たして忌まわしきエゴが消え去らねば、現れないものなのでしょうか?
又、エゴの性質を頭で分析して、真我とおぼしき自分と対比しようとして分かるものなのでしょうか? そこには真我に肖ろうとして、エゴを認めようとしない自分が居座り続けていないでしょうか?
第一、現実に自分の限られた力で、自我性が消えただろうか? 真我というものが見つかっただろうか? いや、そもそも消さねばならない、見つけなければならないものだろうか?
こういうことは、自分の思いを超えたものによってしか示されないのではありませんか?
それを私は内なるものを照らす光の如きものとして"照明"と呼んでいるのです。これはあの強烈な照射を受けた以前からその萌芽は知られていたのです。神への帰依の感情と共に芽生えてくるものでしょう。
そこに写し出されるものは、自分からは向き合うことの出来ないキライな自分も、眩いばかりの知られざる我もある..."全ての私"なのです。
善も悪も無いトータルな私。それがありのままの私に他ならないのです。
この意味で本当の真我?というものは、自我でも真我でもないもののことではないでしょうか? そこに神的なリアリティが開かれる...
だから...このものを受け入れざるを得ないのです。



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