人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

我が主をして語らしめよi

2018-02-18 12:32:02 | 覚醒
"私は、邪悪だったり、愛想よかったり、好奇そうだったり ...コロコロ目まぐるしく変わる目をしたネコ人間...
でも...一度心を許したら、その目はいつもその主人に向けられていて、忘れることがない..."

私がここで、しばしば"現臨に捉えられる"と表現しているものは、単に身体や思考の機能が押さえられて、自動的な機能が発現するようなことではなく、そのハタラキが意識に深く浸透して、意識の変容、覚醒と言われるものに導かれるようなことを差しているのです。
で、私がスブドに関わった動機は、その至福体験を取り戻したかったからで、そこを退いてある瞑想会に関わったのも、その一つとして「もしかしてここならその願望が叶えられるかもしれない」ということが過ったからです。(何という、狡猾な懲りない性分i)
つまり、スブドに居た4年ばかしの間、そういうことに預かることは無かった訳で...その瞑想会での約6年間でも特には無かったのです。
そう、今現在そこも離れているのですが、この理由はウンと現実的なものです。
スブドとその会との明白な違いは、ズバリ経済的負担の有る無しにありますi ショボイ話、私のような底辺の人間には、会員を続けることも、各種の"催し"に参加することもおそらく困難でしょう。
では宝くじに当たったかして、裕福な身になったとしたら ...寄りを戻すことになるか、どうかは...分かりません。
というのもその後、ある修練なり、行法なりに頼ってそういうものを求める...いやそういう体験自体を求める気持ちが無くなったからです。
ということは願望が叶えられたのか? まあ、そういうことにもなりそうですが、ある時「体験そのものに意味は無い、第一それは一個人に起こるようなことじゃない」という、気付きが与えられたからです。
日夜、こういう動機で修練や瞑想に勤しんでいることもあるであろう人たちの心を折ってしまうかもしれませんが、私は"その気にさせる方法"に長年従事していても、それに預かることは出来なかったのですi (多分、狡猾な心が改まらなければダメなんでしょう?)
瞑想と関わっていた平成6年頃は、今と違ってアチコチに"分かっちゃった人たち"は現れておらず、ほとんどそういう情報に接していなかったのですが、ある時「K先生」に「ああいう事というのは、人生で一回しか無いものなのですか?」と訊いてみたことがあります。
確か、その答えは「いや、そんなことはないよi 大きいのや小さいのを繰り返して段々理解が深まっていくんだよ...」というものだったと思います。
"そうだろう、そうだろう...そうなんだi" 段々私自身も、世の流れもそうなる気がしてきたものです。
前記した気付きがあった後、特に精神的覚醒については触れておらず、"神の声が聞こえてくるのですi"などとヘンに誤解されやすいことをフレ回っている、ある合同による瞑想というか礼拝の集まりで、私は現臨に捉えられてしまったことがあります。
その集会は、そりゃもう、礼拝時に"憲法改悪反対i"などという、全く場違いな"感話"が飛び出すなど無知、無理解極まるところで、私は何度も"アホらしくて、やってられるかi"という思いにさせられたところなのです。
それがキリスト友会、通称クエーカーです。
では、その集会、そこで行われる沈黙の礼拝というのは、ラティハン、その瞑想をもしのぐものがあるのでしょうか? 多分そんなこたあないでしょう。(どっちがどっちなんてのは、勝手にやってればいいのです)
ただ、私の知らないところで、そこで真摯な祈りの滋養されたものによって、私の内なるものが呼び覚まされたのかもしれません。
この礼拝というものは、決まった形の無いもので、ほとんど何もしないで座っているだけの"元波動瞑想"と区別のつかないものです。(少なくとも私には)
ここで理解されることは、OO会とかOO法、OOの教えといったものが、"現臨に捉えられる"ことに導くものでない、ということでしょう。
それは、そこに"一なるもので、すべてなるものが顕になる"ということがあるばかりではありませんか?
いくら方法や教えがあったとしても、そのもの無くして何一つ始まりもせず、何一つ起きないのですi
その事はこの世の如何なるマスター、教えによってもあなたや私を得心させることはおそらく出来ないでしょう。
あなた自身の全人生にある"真"のマスターによってしかあなたは全的に頷くことはないでしょう。
クエーカーの"沈黙の礼拝"というのは実に素晴らしいネーミングだと思います。
それはあらゆる宗教、道に内包されていると言えます。

我が主がここに臨めば、すべての喧しい、真しやかなご託は沈黙せざるを得ない。
我が主をして語らしめよi




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霊的修練と瞑想

2018-02-16 17:36:26 | 祈りと瞑想
私は抜け目のないネコ人間...
私がスブドからスパッと離れてしまうことが出来たのは、抜かりの無い策略を廻らしていたからです。
そこには信頼を失ってしまったが、あのバイブレーションそのものは、魂が別のものに乗っ取られなければ?素晴らしいものがある...そのまま辞めてしまうことで失うことになるのは勿体ない...
なーんてことにはならないことはとっくに承知済みでした。いくらスブドやバパ.スブーに悪態ついても大丈夫です。(某教団では"バチが当たる、霊線?が切れるぞi"と脅かされた)
離脱のことが念頭に過り出した頃、ラティハンに代わるその波動に根差した修練を探していて、直ぐに見つかったのです。
それが見えない導きに依るのかどうか知りませんが、実に用意周到なことです。
これが本で知った「元波動瞑想」というものなのでした。
その名称から何かすごく特殊な瞑想みたいなものを連想しますが、言い方は適切でないかもしれませんが、なんてことはない...ただ静かに座っているだけのもので、実際誇張でなく、それだけで自ずとあることは進行してゆくこともあります。
この事は分かる人には自明のことですが、スブドではヘルパーと呼ばれる役目の人がそうであるように、ここではある師筋の人が波動の媒体となり、そのエネルギー交換が行われるのです。
つまりその瞑想というのは、座法とか技法の習得にあるのではなく、その波動を受け入れ、お任せするということが主眼なのです。これは別の面では実習者に内在するものが呼び覚まされるということでもあります。
この点は実にラティハンと合致するところがあると言えるでしょう。
ただそこでは「魂は鉱物から植物、動物の段階を経て...」といった真我というか、自己の中心というものが見えなくなり、どっかへ行ってしまうような、オカルト的進化論のような教説など当然のことながら聞いたことがありません。
その師は「K先生」という人でしたが、私はてっきり日本に初めてインドの神秘家サンダー.シングを紹介した「金井為一郎」という人のご子息か何かと思い込んでいました。
その瞑想とは、サンダー.シング直伝のものでは無かったのです...(笑)
霊的修練ラティハンと瞑想ではその原理には共通するものがありましたが、形、姿勢には差異があります。
前者は立ったままの姿勢で為されますが、それは瞑想と呼ばれる所以で、座り方は自由でしたが静かに座ることから入るのです。
この差異には、あくまで私見ですが、感じ方にも微妙な差異となって現れます。
立ったままの場合、自動的な身体運動が起こりやすくなり、雑念からも離れやすくなりますが、反面"意識の中心"というものからも遊離しやすいとも言えます。
意識の中心というのは、何度か触れているように意志的にどっかに意識を集中することでなく、自ずとそこに集まってくるようなことです。現臨が臨むところと言ってもいいかと思います。
ラティハンにおいては、身体ばかりか意識も飛び回ってしまうようなところがあり、危機的兆候(クライシス)と言われるように、心身のバランスが崩れやすいという事象が見られるのは、この事と関係しているのかも分かりません。
その会ではあまりそういう話は聞いたことがありません。私には座った方が安全であり、中心にアクセスしやすいように感じられました。
どちらが向いているか、どうかは人それぞれですが...
ところで、私は今まで考えたことも無かったのですが、仮にラティハンとこの瞑想を双習していく道もあり得たかもしれないのです。
しかし、どの道スブドを続けていくのは、難しかっただろうと思います。
スブドでは瞑想との双習は禁じられていたからです。その理由は私にも理解出来る面もあります。
私は体験して知っていますが、多くの瞑想に伴う意識を集中する"行為"は、無為的な自動運動を妨げてしまうからですが、あまり画一された御法度は、具体的問題とはそぐわない面もあるでしょう。
スブドは他の宗教を奉じていてもいいと、超宗教的なものを謳っていましたが、瞑想については神経質なまでに警戒していたようです。
だが、ある技法とかオカルト教説とか、任意でやめられ、離れられるものなら容易いことです。
しかし、身に覚えているもの、存在に根付いているものはそうはゆきません。
それは如何なる宗教、道にあろうと発現するものです。それ自体が超宗教的なもの、普遍的なものと言ってもいいでしょう。
自己に内在し、自ずから顕になるものこそがあらゆる道の主体なのでしょう。
私は今、関わりのあった団体の如何に関わらず息づいているものを覚えています。







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ワカる話、ワカらない話

2018-02-15 18:18:24 | 独語
よく考えてみたら、"人生の裏側"にあった時、私は考えることも、分かろうとすることも、疑うことも出来なかったのだ
それで、何かが...究極の真理だとかが分かったとか、理解出来たとか、悟ったとか目覚めたなどと言える訳が無い
それで何かをエラそうに宣うとしたら...すべて真しやかなご託だろう...
何という身の程知らずなことかi
非二元とか二元とか多次元とか高次元とか...
"私は無い"とか"全体しか無い"とか"時間は無い"とか"今しか無い"とか"死は無い"とか..."すべて有る"とか...
分かったような物言いで、何かがワカたれる...切り離される
一体何が分かったのだろう...
これが分かったら、信じたら、救われるとか悟れるとか...
あるいは...流行りに乗り遅れる...主義とかステータスとかアイデンティティとか...
信奉する教師がそう言ったから...信じないと救われないから...
ワカるとは"分別心"...
ちっとも得心し、腑に落ちてる訳でもないのに、何とか"ストン"といかないものかと頭を捻ってみても...
身はちっとも頷いてくれない...
いつの間にか頭の中に悟ったような自分i
神サマに取って代わったような自分i
胴体とも、迷った、救われてない衆生とも切り離された自分i

ワカったものなど何も無い
何かが落ちてきたような、私のすべてが落ちたような...
腑に落ちるなんてどころでない、"そのまんま"...
この"まんまのこと"は他には代えられない
何が正しかろうと、間違っていようと"まんま"照らされるのを受け入れるのみ...
そこを正しそうな神の声で誤魔化して...
"そのまんま"からワカたれる
正しい神に従ったつもりでも、身はちっともついてこない
私が丸ごとまんまで居られるものを
異なる、アダシ神に代えることは出来ない
私には、私の...あなたにはあなたの門が開かれなければならない
そしてそこから私の、あなたの神なるものが顕れてすべてを物語る
真しやかなご託も、ヒマ人の言葉遊びもやむだろう...

何が正しいのかはワカらないけれど...
私やあなたが"まんま"で楽しければ...それはゼッタイ正しいこと
ワカっても、ワカらなくても...













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見えざる導き.現臨.真我

2018-02-13 17:02:18 | ガイダンス
しばしば言っているように「見えざる導き」というのは、私の場合、例えば霊耳、霊聴といったものを通して「ああしなさい、こうしなさい」という言葉のような形で伝わるものではないのです。もっとも、そういうことはほとんど経験が無いので分からないのですが...
私はそういう霊能とは無縁なのです。
それは、何よりもジンジンと伝わってくる"現臨"をともなっているものなのです。
"導き"というのは、その事自体のうちにある、と言ってもいいくらいです。
例えば、ある本のことを思い浮かべたら、"それが立ち上ってきた...そのものによって本に意識が向いた...それ、書店へ急げi"
と、いうようなことなのです。
又、あることが気になっているとすると...ジンジンとしたものが感じたり、感じなかったりするのですが、後者については、意識が向くこともないので、スルーすればいいだけなのですが、前者の場合でも、なんかモヤモヤした空間が、その気流のようなものを滞らせているように感じたりする..."何か障り、試されるようなことが起きるのかな?"というのが過ったりするようなことです。
そのように意識付けられ、心象に顕になることであり、本来は言葉に言い表すことが出来ないものです。
当然のことながら、私にも"そんなのは非常識的だi 理性的判断てーのがあるだろう"という世の中の声、"そんなことしてもちっとも得にならんではないかi 何の意味があるの?"という周囲の声などの誘惑に晒されているのは言うまでもありません。
しかし、どこまでも私にとってのリアルな現実とは、この現臨をおいて他には無いのですi
そういうものを目の当たりにしてるし、ずっとうちに息づいているものなのですから...
"にゃにー、理性的判断だとお...んなものいつ破綻するか、いやとっくに破綻してるともワカランものアテになるかi"
だから、あのすべてを見通すような超理性的判断にゆだねざるを得ないのですi
ここで留意すべき点は、自分が判断する主に取って代わろうとしないことです。
ちっぽけな理性は、分際も弁えず"すべて分かったi"と過信しようとします。
大事なことは、何かのお告げみたいなのがあるか、どうかということでなく、そのもの(現臨的なもの)と共にあるか、どうかということでしょう。
瞑想とか祈りというのがあるのも、そのものあってのものです。
それと切り離されると...多くの場合迷いにつながります。
とは言え、微妙な言い回しながら、導き主というのがあり、それに従う私が居る、と全く二つに分かれているものでもありません。
時には、"見えざる導きにお伺いする"というようなこともあるのですが、それは"自問自答"している、という面もあるのです。
それは真我的なものと別にあるものではありません。
又、現臨にあるということは、言い換えると"喜ばしきものが、又安心出来るもの、平安がそこにある"ということです。
"理由もなく、そっちに引き寄せられる"というのは、そういう"理由がある"のです。
"これは真我から来るのか、自我から来るのかどっちだろう"とか、"本当に導きを受けているんだろうか?"と考えている向きもありますが、そのものが臨んでいる時は考えてる間も無く、意識が捉えられてしまうのです。
大体世の中何が本当だか分からないものだし、何に幸福を見い出していいのか、探しあぐねているのなら、それで騙されても本望というものでしょう。
それは全くもってあなたや私のみが知り、預かれるものであり、アカの他人や世の中の声などの出る幕など無いのです。


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幻想と現実の狭間で(後)

2018-02-11 12:08:52 | 回想
"私はあの連中とはちと違う
もっとマトモで高尚な人間だと思っていた...
あの世界には悪意、愚かさ、混乱に充ちていた
然るに...
何故、こうも"こうあらねば"という思いに反して、それらに囚われなければならないのかi
私はあの世界から抜け出そうとして...縛られてしまった!
私もあの連中と同じ穴のムジナだったのだ...
それにしても、あの至福の瞬間とはなんと程遠いものなのだろう..."

私はスブドを離れるにあたって、今のように意識的になってなかったにせよ、"見えざる導師"にそのことを向けてみようとしたこともあります。
見えない導きというのは"こうしろ、ああしろ"という具体的な形として表されるものではなく、とても微妙な内的な促しなのです。
これも今のように、"意識を向けると、パッと..."という具合には行かなくて、ある意志的な"想起"も必要だったのです。
その時置かれていた現実からすると、夢か、幻想のようにも感じられましたが...
そして、こういうような促しを受けました。

"お前はとにかく今、自分を失おうとしている...ここにとどまりなさい...お前は常に私と共にあることを忘れるなi...
その上で、そこを離れるか、どうかはお前の意志に任せよう...その為にお前は今よりも苦しみを背負うことになるかもしれない...お前が本当に大切に感じているものを手放すことになるかもしれない...学びの機会を自ら放棄することになるかもしれない...それとも...今のお前は私のこと故に我慢がならないものを感じているのか?...道はお前にゆだねられている..."

私はその事後、示されたように本当に精神的苦境に見舞われてしまったのです。
どんなに思い方を変えようとしても、次から次へとネガティブな思いに囚われてしまう...その関係を絶ち切ったつもりでいたが、かえって業因縁でより強く結ばれてしまったようでした。
"私は彼らに裏切られたのか、私が裏切ったのか..."
これは、スブドに限った事でなく、様々な縁で性懲りも無く同じことを繰り返していたのです。
それはどうも私の中の一点足りとも妥協しようとしない、強固なる意志に由来するらしいです。"コイツこそが全ての厄介事の種なのか?"
そうかもしれません。しかし...私の"人生の裏側"に関して、推進力となっていたのは実にこのものだったのですi
このものは、表層の私の意志ではどうともならない、私の"見えないアイデンティティ"なのかも分かりません。
思いのガンジガラメに押し潰されそうになっていたのを、首の皮一枚くらい"私の本来性"のようなものに繋ぎ止めていたのもこのものだったかもしれません。
そして表層では"ケタクソ悪い"と思っていた、いや思おうとしていたが、否定しようもなく込み上げてくるのは、あの普遍調和へと変容し得るかもしれない、人間関係を自ら手放してしまった、という思いなのでした。これはこれまでの幾多もの関わりについても言えることなのです。
命位様は言っていました。
「あなたは、一コのあなたの成就だけでは本当には充たされないでしょう。関係を通しての共同的な成就によるものでなければ...」
もう、離れて大分経ってしまった現在、あの"同胞会"がどのような有り様になったかは知る由もないですが、私と縁のあったあの"ほろ苦い青春群像"は、とりわけ私にはどっかにあるであろう、本当のアイデンティティを求めて、共にもがき苦しんでいた戦友のように思えるのです。

それから数年経ち、どうにかその苦境から抜け出せる切っ掛けになったのは、スブド会員のKさんからの依頼で文章を書くことになり、あの"裏側"に入り込んだことを初めて文章に表した事だったと思います。
私は改めて私の内に息づいているものに向き合ったのです。
あの時の"見えない諭し"は、その私が"改めてスブドに向き合ってみよi"ということだったのかも分かりません。


コメント (7)
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