"私は、邪悪だったり、愛想よかったり、好奇そうだったり ...コロコロ目まぐるしく変わる目をしたネコ人間...
でも...一度心を許したら、その目はいつもその主人に向けられていて、忘れることがない..."
私がここで、しばしば"現臨に捉えられる"と表現しているものは、単に身体や思考の機能が押さえられて、自動的な機能が発現するようなことではなく、そのハタラキが意識に深く浸透して、意識の変容、覚醒と言われるものに導かれるようなことを差しているのです。
で、私がスブドに関わった動機は、その至福体験を取り戻したかったからで、そこを退いてある瞑想会に関わったのも、その一つとして「もしかしてここならその願望が叶えられるかもしれない」ということが過ったからです。(何という、狡猾な懲りない性分i)
つまり、スブドに居た4年ばかしの間、そういうことに預かることは無かった訳で...その瞑想会での約6年間でも特には無かったのです。
そう、今現在そこも離れているのですが、この理由はウンと現実的なものです。
スブドとその会との明白な違いは、ズバリ経済的負担の有る無しにありますi ショボイ話、私のような底辺の人間には、会員を続けることも、各種の"催し"に参加することもおそらく困難でしょう。
では宝くじに当たったかして、裕福な身になったとしたら ...寄りを戻すことになるか、どうかは...分かりません。
というのもその後、ある修練なり、行法なりに頼ってそういうものを求める...いやそういう体験自体を求める気持ちが無くなったからです。
ということは願望が叶えられたのか? まあ、そういうことにもなりそうですが、ある時「体験そのものに意味は無い、第一それは一個人に起こるようなことじゃない」という、気付きが与えられたからです。
日夜、こういう動機で修練や瞑想に勤しんでいることもあるであろう人たちの心を折ってしまうかもしれませんが、私は"その気にさせる方法"に長年従事していても、それに預かることは出来なかったのですi (多分、狡猾な心が改まらなければダメなんでしょう?)
瞑想と関わっていた平成6年頃は、今と違ってアチコチに"分かっちゃった人たち"は現れておらず、ほとんどそういう情報に接していなかったのですが、ある時「K先生」に「ああいう事というのは、人生で一回しか無いものなのですか?」と訊いてみたことがあります。
確か、その答えは「いや、そんなことはないよi 大きいのや小さいのを繰り返して段々理解が深まっていくんだよ...」というものだったと思います。
"そうだろう、そうだろう...そうなんだi" 段々私自身も、世の流れもそうなる気がしてきたものです。
前記した気付きがあった後、特に精神的覚醒については触れておらず、"神の声が聞こえてくるのですi"などとヘンに誤解されやすいことをフレ回っている、ある合同による瞑想というか礼拝の集まりで、私は現臨に捉えられてしまったことがあります。
その集会は、そりゃもう、礼拝時に"憲法改悪反対i"などという、全く場違いな"感話"が飛び出すなど無知、無理解極まるところで、私は何度も"アホらしくて、やってられるかi"という思いにさせられたところなのです。
それがキリスト友会、通称クエーカーです。
では、その集会、そこで行われる沈黙の礼拝というのは、ラティハン、その瞑想をもしのぐものがあるのでしょうか? 多分そんなこたあないでしょう。(どっちがどっちなんてのは、勝手にやってればいいのです)
ただ、私の知らないところで、そこで真摯な祈りの滋養されたものによって、私の内なるものが呼び覚まされたのかもしれません。
この礼拝というものは、決まった形の無いもので、ほとんど何もしないで座っているだけの"元波動瞑想"と区別のつかないものです。(少なくとも私には)
ここで理解されることは、OO会とかOO法、OOの教えといったものが、"現臨に捉えられる"ことに導くものでない、ということでしょう。
それは、そこに"一なるもので、すべてなるものが顕になる"ということがあるばかりではありませんか?
いくら方法や教えがあったとしても、そのもの無くして何一つ始まりもせず、何一つ起きないのですi
その事はこの世の如何なるマスター、教えによってもあなたや私を得心させることはおそらく出来ないでしょう。
あなた自身の全人生にある"真"のマスターによってしかあなたは全的に頷くことはないでしょう。
クエーカーの"沈黙の礼拝"というのは実に素晴らしいネーミングだと思います。
それはあらゆる宗教、道に内包されていると言えます。
我が主がここに臨めば、すべての喧しい、真しやかなご託は沈黙せざるを得ない。
我が主をして語らしめよi
でも...一度心を許したら、その目はいつもその主人に向けられていて、忘れることがない..."
私がここで、しばしば"現臨に捉えられる"と表現しているものは、単に身体や思考の機能が押さえられて、自動的な機能が発現するようなことではなく、そのハタラキが意識に深く浸透して、意識の変容、覚醒と言われるものに導かれるようなことを差しているのです。
で、私がスブドに関わった動機は、その至福体験を取り戻したかったからで、そこを退いてある瞑想会に関わったのも、その一つとして「もしかしてここならその願望が叶えられるかもしれない」ということが過ったからです。(何という、狡猾な懲りない性分i)
つまり、スブドに居た4年ばかしの間、そういうことに預かることは無かった訳で...その瞑想会での約6年間でも特には無かったのです。
そう、今現在そこも離れているのですが、この理由はウンと現実的なものです。
スブドとその会との明白な違いは、ズバリ経済的負担の有る無しにありますi ショボイ話、私のような底辺の人間には、会員を続けることも、各種の"催し"に参加することもおそらく困難でしょう。
では宝くじに当たったかして、裕福な身になったとしたら ...寄りを戻すことになるか、どうかは...分かりません。
というのもその後、ある修練なり、行法なりに頼ってそういうものを求める...いやそういう体験自体を求める気持ちが無くなったからです。
ということは願望が叶えられたのか? まあ、そういうことにもなりそうですが、ある時「体験そのものに意味は無い、第一それは一個人に起こるようなことじゃない」という、気付きが与えられたからです。
日夜、こういう動機で修練や瞑想に勤しんでいることもあるであろう人たちの心を折ってしまうかもしれませんが、私は"その気にさせる方法"に長年従事していても、それに預かることは出来なかったのですi (多分、狡猾な心が改まらなければダメなんでしょう?)
瞑想と関わっていた平成6年頃は、今と違ってアチコチに"分かっちゃった人たち"は現れておらず、ほとんどそういう情報に接していなかったのですが、ある時「K先生」に「ああいう事というのは、人生で一回しか無いものなのですか?」と訊いてみたことがあります。
確か、その答えは「いや、そんなことはないよi 大きいのや小さいのを繰り返して段々理解が深まっていくんだよ...」というものだったと思います。
"そうだろう、そうだろう...そうなんだi" 段々私自身も、世の流れもそうなる気がしてきたものです。
前記した気付きがあった後、特に精神的覚醒については触れておらず、"神の声が聞こえてくるのですi"などとヘンに誤解されやすいことをフレ回っている、ある合同による瞑想というか礼拝の集まりで、私は現臨に捉えられてしまったことがあります。
その集会は、そりゃもう、礼拝時に"憲法改悪反対i"などという、全く場違いな"感話"が飛び出すなど無知、無理解極まるところで、私は何度も"アホらしくて、やってられるかi"という思いにさせられたところなのです。
それがキリスト友会、通称クエーカーです。
では、その集会、そこで行われる沈黙の礼拝というのは、ラティハン、その瞑想をもしのぐものがあるのでしょうか? 多分そんなこたあないでしょう。(どっちがどっちなんてのは、勝手にやってればいいのです)
ただ、私の知らないところで、そこで真摯な祈りの滋養されたものによって、私の内なるものが呼び覚まされたのかもしれません。
この礼拝というものは、決まった形の無いもので、ほとんど何もしないで座っているだけの"元波動瞑想"と区別のつかないものです。(少なくとも私には)
ここで理解されることは、OO会とかOO法、OOの教えといったものが、"現臨に捉えられる"ことに導くものでない、ということでしょう。
それは、そこに"一なるもので、すべてなるものが顕になる"ということがあるばかりではありませんか?
いくら方法や教えがあったとしても、そのもの無くして何一つ始まりもせず、何一つ起きないのですi
その事はこの世の如何なるマスター、教えによってもあなたや私を得心させることはおそらく出来ないでしょう。
あなた自身の全人生にある"真"のマスターによってしかあなたは全的に頷くことはないでしょう。
クエーカーの"沈黙の礼拝"というのは実に素晴らしいネーミングだと思います。
それはあらゆる宗教、道に内包されていると言えます。
我が主がここに臨めば、すべての喧しい、真しやかなご託は沈黙せざるを得ない。
我が主をして語らしめよi