人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

幻想と現実の狭間で(前)

2018-02-10 11:46:01 | 回想
かつて私が大調和協会の在り方に対して命位様に不満をもらした時、このように言われたことがありました。
「あなたには、絶対に他の何ものにも代えることの出来ない、すべてが調和に充たされているような世界が映し出されているようね。それに悖るようなことは、毛筋ほどでも絶対に許そうとしない、妥協しようとしないあなたが居るようね。でもね、この見える現実はそのように出来上がったものばかりじゃないでしょ。至らないこと、欠陥、許せないようなこと...それはあなたにもあるものじゃないの? どうしてそのことを許すことが出来ないの?」
この言葉は、私の内面にあるものを"スパッ"と言い表されたもので、否定しようのないものなのでした。
私は最善、最愛のものが内面に霞めるのを認めるや、あたかもそれが現前したかの如く、かくあるかの如く思いがそちらに向けられます。
ある面では、それは現存するもの、いや常に現存しているものとも言えるものです。
それは思いを超えて何時、どこに発現するか分からないものですが、実際にリアルにその現存を認識したこともあります。
それはその現存に捉えられる意識の変容によって知られるのです。
ここで私が述べているのは、個的に預かるような、シンプルな"精神的目覚め、エンライトメント"のことではありません。
人と人の間に、共同的な場において有機的な調和意識をもたらすものについてのことです。
もっともこの二つの領域のことは、切り離すことの出来ないものではあります。(そのことは私の"目覚め"そのものが、何よりも物語っていたのです)
しかし、いつも我々はそうしたものに意識が根差されている訳じゃありません。
やがてそこに覆いが被さるようになり、それが段々と重ねられ、思いのガンジガラメが始まる...その現存と共にあることなど、夢の如く、無かったかの如く真逆の様態になってしまうのです。
あの有機的調和意識に全く悖るような分離意識も生まれてきます。
"ドイツも、コイツも、救いようの無いバカばっかりでねーかi こーゆーところに居たんでは、私の中の理想天国には中々たどり着けないから、さっさとお先に失礼しまっさi "
私がスブドをヤメようと決心した時、それを言ったらメンバーから蜂の巣にされかねない、こういう暗い、狡猾な思いが過っていたのでした。
そして諸々のスブドに纏わる思いからも解放され、自由になれるものと思っていたが...
本当の精神的苦境、思いのガンジガラメ地獄はその後にやって来たのでしたi
主としてとっくに切れたはずと思っていた人間関係に起因する、ネガティブな思いに支配され勝ちな期間がほぼ二、三年は続いたと思います。その時の私を客観的に観たならば...
"コイツは救いようの無いバカだなi" というものでしょう。
かつて私は所属していた、スブドの支部で出していた自由投稿誌でこういう文章を綴ったことがあります。

「私は周りのものがみなバカに見えて仕方ありません」
「そう。だからお前はいつもバカを見ているのだi」

これは全く私の運命、サガのことを何ものかによって書かされていたに違いありません。
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他に代えられない道

2018-02-09 17:43:02 | 求道、探究
「宇佐美景堂」という元大本教徒で、日月神示をその方面の好事家に広めた神道霊学の先生が居たのですが、その人は「私の書いたもので、教科書になるようなものは一つも無い、常に自分が研鑽、研究したことを綴っているだけだ」と述べていました。
私がいつもここで書いているのも全く同じ姿勢によるもので、身の程知らずにも人に何かを教示しようなんてことは思ってないのです。
記事を読んでいて、"掴み所が無い、何を言っているのかよおワカラン"と感じられるとしたらその為でしょう。
誰ぞやが言っていた雑記帳みたいなレベルのものです。
"へえ、こういうヘンな人も居るのだなあ"と、一つのサンプルにしてもらえばいいと思っているのです。(これは多く脳障害児の"ルナ"君に習っているのです)
よく考えたら宗教、スピ界などというのは、もうほとんどこの"越権"が横行しているではありませんかi
五井先生はある本で「"ア.オ.ウ.エ.イ"って、植芝先生の言霊はいいねえ...だけど、あれを私がやるとマネになってしまう...私はだから"世界平和の祈り"を勧めてるわけね...」なんて述べていますが、確かにあの祈りはある面普遍性というものを感じさせるものではありますが、どうも神様が全人類に向けてそれを唱えるように発信したものでは無いらしいです。
生長の家なんかでは、教祖さんの産土(守護神のようなもの)である、住吉の大神を信者に拝ませているのです。
こうした界隈では、人マネばかりさせられているようです。
一個人のことを特別視し、それに従うというのも逆説的ながら自由なんでしょうけど、自己に意識を向けなければ、何時になっても内なるものは開かれないものでしょう。
スブドのラティハンは、人各々に応じた内なる霊性が開かれる、ということを謳っています。私はこの部分にすごーく共感した覚えがあるのですが、それだけに...それを踏みにじられた、という思いが(まあ、思い込みもあるでしょうが)募り、強められたのかなあ、と思っているのです。
この内なるものは、その修練に関わる以前から人各々に存しているもので、当然そこをヤメることで失うものでもありません。
私自身、それと関わることでこういう確信は芽生えていました。
"あのバイブレーションみたいなものは、身に覚えられているので無くならない、それはずっと私の内に息づいているものだ..."
そして、もしそれが退くことと共に消滅するものだとしたら...多分ヤメてなかったでしょう。
ある宗教などでは、ヤメると"霊線"?が切れるなどと言っているところもありますが、ここが重要なことで全く違う部分なのです
そうです。私はラティハン、バイブレーションといったごく基幹となるものについては、それで問題になったこともなく、否定的に感じていなかったのです。"じゃ、何でヤメちゃうのか"って?
まあ、"いずれ私もイスラーム(それ自体悪いものじゃないです)霊団のようなものに魂を乗っ取られるかもしれないから、ここいらでズラかったほうがよかろう"といった、妄想的懸念もあったのも確かでしたが、とにかくそこに漂っていた、バパに肖ろうという色、ことにオカルトもどきの霊的進化論の色を払拭したかったのです。
当然のことですが、そういうものを何一つ知らなくとも、如何なる宗教を信じてようと、信じていまいと受けることが出来(そのことを謳っているスブドには、仏教に関しては茶番としか感じられない記事を読んだことがあります)、後者についてはいたずらに要らぬ観念を背負い込んで、混乱を招くことにもなりかねないものです。
本来名付けることの出来ない、純粋なバイブレーション、ハタラキ的なものはニュートラルなものであり、それにより自己が開かれるについては、他に肖ろうとしたり、先入観になるような、余計な思念は持ち込まないことが肝心です。
そこに発現してくるものこそ、人各々の魂の個性というか、世に言うアイデンティティならぬ元なるアイデンティティでしょう。
これはスブドを例に述べているのですが、あらゆる道においても、人各々の"ゆだね"にゆだねられているのでしょう。
あなた自身の道は他には代えられないのです。
こういう理由で、毎度書いてるように何を信じたら、どうやったら、そうなる、こうなるということは言えないし、出てこないのです。
そして時折、ブツクサ呟いたりするのは"越権"を感じるものに対してのもののようです。自分のサガを吐露してるまでですが...

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人生の教師と見えざる導師④

2018-02-06 17:46:18 | 人生の教師
私はこれまで何人かの教師たちから学びを受けてきました。
しかし、世の宗教などの信奉者のように、特定の個人を崇拝するということは無かったと思います。
強いて、個人崇拝というのは当たらないまでも、一時期特別視していたというか、その教えを真理探求の一つの範のようにしていた人物は居りました。
五井先生です。まさしく精神的な道に目覚めて、真理探求の真っ最中だった頃のことです。
それ以前入信していたM教団ではどうだったかと言うと、すでに亡くなっていた教祖、二代目の教えにも共感したことなど一度もありません。
ちっとも主体的に関わるということがなく、"もうすぐ天変地異がやって来て、この教えによらなければ救われない"とか、そこの周りに躍らされていただけだったからでしょう。
同じ経験をしている人も多かろうと思いますが、自分の意志で求め、最初に深く共感することというのは、精神的な歩みにおいて大きいものを残すものでしょう。
私はその後そうした、五井先生に向けていた特別な思いから離れることになったのですが、今でも共感は失ってはいません。
こないだ先生の著書を読んでいたら、一時評判になった「日本人とユダヤ人」という本について「このイザヤ.ペンダサンって著者は、日本人以上に日本のことが分かってる...」なんて書かれていました。
今ではこの著者は「山本」という日本人だったのは衆知の事実です。
人の運命や前世、世界の未来のことが分かるという、霊覚者として評判だった五井先生でも、そのことは見抜けなかったのです。
私は何もここで"五井先生の霊覚なんてインチキだi"な~んてことを言いたいんじゃありません。
それは、フツー人には預かり知れない霊能、霊覚があるからと言って、何でもかんでも特別視、絶対視して盲信する傾向に対してのものです。
先の共感するということは、そのような看板というか、尾ひれのようなものとは別個にあるものでしょう。看板倒れになろうと変わらないものであるはずです。
例えば"予言が外れた!"ということで離れてしまう者が居たら、"予言を信じなさいi"という方も同類なんでしょうが、彼が求めていたのはそういうものだったということです。
二義的なものでなく、この共感ということを一義にもっと深めていくと、やがて自分自身の内から呼び覚まされるものを感じてくると思います。
そして共感というものがそこにハタライていることは、その対象となる教師ばかりでなく、主体となる自己との関係で起きるものだということが分かるでしょう。
やがてそれが意識の深部にまで浸透するようになると...見えない導きに預かる...かもしれない?
すると、段々自分の外と内とがつながるようになる...こういうことで特定の個人崇拝、個人の絶対視といったことから離れてくるのが自然だと思います。
人にはそれぞれ異なった縁、気根というものがあり、一人の教師、聖人をずっと帰依し続けるという人もおれば、複数を信奉するものもおれば、そうした"見える"存在でない"見えざる導師"(こっちは何人も居るようには全く感じません)と関わる者も居るでしょう。
ただ、深い共感があるところには、見えるものであっても、そこに見えないものの連繋があるものでしょう。
他者への信頼は、自己への信頼と切り離せないものになるのです。
そして相対観念に囚われた、見えるものの絶対視(私はこれには共感出来ません)といったものからは自由になってくるものでしょう。



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海が好きだったMさん

2018-02-04 13:06:01 | 回想
私がスブドの門を叩いたのは、昭和61年晩秋のことで、待機期間の後、翌2月からその霊的修練ラティハンに従ずることになったのです。
スブドのことは、以前にも書いたようにそれ以前から知っており、私の中でずっと惹かれるものがある反面、"これは果たして大丈夫なところなのか?"という疑念も交錯していたのでした。
そうした私の心がそっちに動いたのは、その頃公刊された「スブドー内なる生命との出会いー」という本を読んだことが切っ掛けでした。
こうした経緯で入会した人は(何の因果だか知らないが...)関西方面で私以外にもほぼ同年代で数人おりましたが、その中の一人にMさんという、私と同様すごーく人見知りに見える人が居ました。
しばらくは修練が終わった後の数人交えての茶飲み話以外、親しくしたことは無かったのですが、広島で行われたスブド全国大会で同室になったことが切っ掛けで二人で会う機会も多くなりました。
ただ、本当にオープンに打ち解けた雰囲気で交わったことはほとんど無かったと思います。これはおそらくお互いにそういう、どっかに気を許さないものを心性に持っていたということなのでしょう。
話を聞いていると、彼は実に熱心に精神世界を探求していることが分かりました。
その頃の私はそっちには少し距離を置いていたのですが、嫌が応にも話に付き合わされ、しまいに私もある面で再び浸かるようになってしまったようです(笑)
彼はとても子供っぽい性格で、時に確かめようのない、霊界とか前世といったことにも話が及んでいましたが、私は「へえ...ふ~ん、ふん、ふん」とテキトーに聞き流しているだけ...要するに半分バカにしていたのです。
いつだったか「考えても分からないことを考えててもしょうがないじゃないか?」と感ずることをキッパリ言い放ったこともありましたが、Mさんは何か考え込んでしまった様子でした。
精神世界に関心を持つ多くの者がそうであるように、スブドのバパ.スブーの他に、彼には導師と目している存在がおりました。それは五井先生です。
しばらく私の念頭から離れていた存在でしたが、Mさんの熱心な話に傾け、借りた五井先生の講話のテープとかを聞いているうち、故郷に帰ったような懐かしさを覚えました。
そしてとてもシンプルに五井先生に傾倒しているMさんを見ていて、私は忘れかけていたこの単純な帰依の感情というものに心が奪われました。(こういう話は長いこと会っていないMさんにとって、本意のものなのかどうかは分からないですが、私にはもっとも印象に残っていることです)
ところが...彼にはもう一人導師的存在が居たのです。それはG.I.グルジェフ。スブドとの関連でならこの名が出てきても、分からないでもないですが、この取り合わせというのは、アチコチにアンテナを張っていた私でもよお理解出来ませんでした。
私見では、彼はグルジェフについては深く理解を傾けている訳では無く、その醸し出す深遠そうな神秘的ムードに惹かれていたのではないかと思われました。どっちが彼に相応しいかと言えば、私にはシンプルな五井先生の道の方に感じました。
それもスブドにおける経験を深めていくうち、自然と離れていったようです。
平成二年夏頃だったか、彼が有志とスブドの本拠地インドネシアから帰って、何か心に変化が訪れたのか、一寸雰囲気が変わったように見受けられました。私とKさんは冗談混じりに「Mさんはようやく自我に目覚めたんだ...」と言って笑ってましたが...
笑ってなど居られませんi 私も含め、若者もオッサンも周りの人間は皆何らかのデキアイでない、"アイデンティティ"を探してノタウチ回っていたのですi
この頃から何となく私と感情面で、シックリ来なくなることもしばしばあったのですが、私はつい出来心で、ある人が言っていたことに乗っかるように、彼のことをバカにしたようなことを口にしてしまったことがありました。
これは今でも後悔していることなのですが、それ以降私とMさんの間に微妙な溝が出来てしまったようで、二度と修復出来ずに終わってしまったかも知れません。もう、今生では会えなくなってしまったのだから...
彼は海が好きで二人で昭和63年夏、和歌山の浜の宮に海水浴に行ったことがありました。
「オイオイ、どこまで行っても人(しかもカップル)とクルマばかりで海など見えて来んではないかi」と暑いのにブツクサ言いながら、ようやく遊泳場に着いたが、海は人で一杯でプールのようでした。
まさか、あんなところで波に呑まれて命を落としてしまうとは...
この悲報はスブドを辞めてからもずっとMさんの友人だった、Tさんから平成15年夏に知らされました。
何しろ数十年も会ってなかったので、その後の彼のことは分かりません。
何でもずっとスブド、バパに心を捧げていたそうです。
それは私とはあまり縁が無かったようですが、人が何に最愛のものを見い出すか、どうかはその人の問題です。
彼にはシンプルにそれに帰依出来る心持があったと感じています。

あの世のことは、ここに居ながらでしか想像出来ないものだけど...もし、私が垣間見た世界がそっちとつながっているのならば...
そこはこの世の倍どころか、比較にならないくらい、疑うことの出来ない、確固たるもので満ちている...そして、愛、平安..人間関係の軋轢も無い...
Mさんはきっと、最愛なるもののうちで安らっていることでしょう...。
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魂のアイデンティティ

2018-02-03 11:25:05 | 哲学・思想
人間誰しも中学くらいの年頃になると、所謂自我意識というものが目覚め、学校でも頼みもせんのに「アイデンティティの確立」なんてことを押し付けてきますね。
私などもその時分には、悩みごともイロイロ出てくる訳で、「"あいでんちちい"とは何か?」ということを巡り悩んだりしていました。
「君のアイデンティティは何か?」などと向けられても、虚空を見つめるか、"こんなんでいいのか?"などと人の顔色を伺うしかなかったのです。
スピ界隈でしばしば言われているように、所謂アイデンティティというものは、人が、世の中がそう言っているものにすぎず、それに"それが無いと世の中生きていけなくなるんだよ~"なんて刷り込まれて、自分で"こういうものだ"と思い込むことでしか確立出来ないものなのです。
それは"何がホントの自分か?"ということにはつながらず、葛藤を抱えて「アイデンティティ病」を蔓延させてしまう、この世の様のような事態になってしまうのです。
誰でも"ホントの自分は何か"は分からなくても、理屈抜きに好きなこと、惹かれるものは分かるはずですよね。中々見つからないというのはともかく、分からないというのはかなりの"重症"です。
わけても、この理屈抜き、無条件に惹かれてやまないものこそは、その人にとって最愛のものと言えるでしょう。
それはゼッタイに他におもねることなど出来ないはずのものです。そういうことは自分の魂を他に売るようなことに等しい...魂への誤魔化しですi
魂? ハテ?...それは何だか分かりませんが、そーゆー風なものが"出てくる"とか"臨む"という実感ならあります。
それは自分が自分で無くなる..."我ならぬ我"になっているような時です。
もう、思われた自分とか、"あいでんちちい"だとかはぶっ飛んでしまうのです。それは最愛のものと共にあることでもあり、自己の中心にあることでもあります。
しかし、"最愛のもの"とか"中心"というのは、"これこれ、こういうものです"とこちらで決められるものではありません。
ただ、そのものが現臨した時、"それが在る"としか言えません。見えないけど在る...(ビットコインには騙されるなi)
それは捉えることが出来ない...思いが破れたところから臨在するのです。こちらで決め込もう、捉えようとすることは思いの陥穽にハマるということです。
神、信仰もこれに囚われるや、デキアイのものに堕ちてしまう...神はどこまでも最愛のものとならざるを得ません。
自分の信念というものがそういうものに代えられるでしょうか? すり代わった時、観念の奴隷となるだけです。

私が意識が遠退き、アイデンティティも吹っ飛び、自分が何だか分からなくなった時、そのものが臨在し、そのものに在ることで"私はここに在る"ことに気付かされたのです。
それは思いに囚われた自分から見れば、まだ見ぬ"我ならぬ我"でしたが、一方では、生まれる前からずっと知っている"大本の我"との再会なのでした。
非二元スピでは"私は居ない"などと決めつけたこと言いますが、この見えないけど、捉えられないけど実存している我というもの無しに、何も宣うことは出来ないのです。
人が、世の中がそう言っている、アイデンティティというものは、ビットコインのようにあるかのように見せる"写し世"である現世を象徴しているようです。
それは確かに思われた私に先立つ魂の個性といったもの、原アイデンティティのようなものを部分的に写し出しているのでしょう。
それを全的に受け入れるにはシンプルに他におもねることなく、自分の好きなこと、惹かれることにアンテナを向けることから始まるでしょう。全的になるにつれ、迷い、モヤモヤ感、滞り感が薄れてきて、「何だろう?」と考える先に自ずと赴いてしまいます。
分かっている人は他人の出る幕などなく、とっくにしている、いやそうなっているんでしたね...。

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