人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

内に省みる

2024-04-06 09:18:33 | 哲学・思想
私はいつも宗教やスピの道に取り巻いている、その教師や教理に無批判に迎合し、固定観念に囚われてしまう傾向を嘆かわしく思っています。
そこでどんなに、神や霊的なことについて語られようと、全く霊性の道にはつながらないと言わねばなりません。
教師も信者も多いに反省してもらいたいものです。
その点、哲学の世界、特に宗教哲学では、このような傾向は、哲学的な精神とは相容れない、反するものとして、一笑に付されるように全く問題にされることがありません。
その理由として、しばしば“その心的態度は、内省を欠いている“、とか言われたりしています。
それは又、よく主体的に考察が加えられていない、要するに、自分の頭で考えられていないことのように受け取られているようです。
そうには違いないのでしょうが、この内省、内に省みることですが、その考察の内奥にあるものは、果たして自分で考えられたものなのでしょうか?
これは、内奥を照らす光に与ることに他ならないのではないか?
前々回で取り上げた、“回光返照“という禅の言葉もそこから内省というものに結びつくのは言うまでもありません。
つまり内省とは、思いを超えた光に照らされ、浸ることなのです。又反省というのも、それは幾分外向きに思いを正すという方に傾くものですが、本質的には同じだと思います。
哲学者は、その思考を超えた土台に乗っかりながら、知性的に哲学的な考察を加え、展開してゆくのでしょう。
宗教家などは、より情感的に“信“の世界を説き明かしたりします。そこでは例えば聖書や仏典に書かれているような、直接哲学的なアプローチにはつながらない、寓話、神話的な表現を借りることもあるでしょう。
それはしかし、直ちにそれが真実として信従されてしまうようなものでなく、メタファー(象徴、表徴)言語として表されるもので、根本的なものは、その思考を超えた土台にあることは変わらないはずなのです。
内に省みて、霊的な光、生命に与ることは(何故かあまり言及されないようなのですが、多分当たり前過ぎるからでしょう?)、愛、幸福に与ること!...これに尽きるのです!
このように何故、無批判に他人の言葉に迎合、隷従することが霊性の道を閉ざすものであるか、自明なことではありませんか?!...
霊なるものとは、単なる興味本位に流れ、頭でっかちになるだけの、思念世界を超えたところから開かれるものなのです。
内省を欠いた心的態度は、霊性の道を切り開く上で致命的な欠陥と言わねばなりません。
だから...“反省しろ!“、と言うのです!

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私の本心?

2024-04-04 09:47:23 | 雑感
長年、霊性の道を歩んでいて、中々思うような境地に導かれないという人も居られるでしょう。
そういう人に向かって、“長いこと一体何やってんだ!“、なんて酷いこと、アタシャ、言える訳ありません。
そういうことは、個人的に因縁のある、あの反面教師に対して“情け容赦なく“、浴びせているのでして、そうでない人には当てはまらないのです。
大体、私はいつもここで、“自分の思い、力を超えたものに拠らなけば何も開かれない“、と言っているのですよ。言ったことが自分に跳ね返るようなことは決して言いません。
だから、そのように導かれなければ、何も開かれなければ、それを受け入れなければしょうがないのです。このありのままの現実を受け入れるということもいつも言っていることです。
私がそういう人のことをどうこう出来る訳ではありませんが、ただ、これ又いつも言うように、あなた自身にとって神なら神というものが、霊性を開くということがどういうものなのか、ということを他人行儀でなく自分自身に問うてみる、というようなアドバイスは出来るかと思います。
そう自己の内心に省みるのです。それでダメなら諦めて、すべてを任せて受け入れるしかないでしょう。
しかし...いやもう、私は何度も経験しているのです。その時何かが変わるのを!
自分がというよりも、自分の場が変わるという感じになります。そうなると、自分をどうこうしようという思いから離れるようになります。
そう、思いから離れる!...思いを超えせしめる場がそこに現出されるのです。
言ったことはすべて私自身が経験していることなのです。
道を歩んでいて、思ったようなことに導かれないことも、思ってもいなかったことに導かれたことも...それはありのままの自分の本心?の発露なのです。
だのに、何だあのウマシカは!、何十年も祈りの道に精進してるらしいが、カルトに盲信したり、不食だとか自力作善の雑行に盲進したり...
そういう自分の現実を省みないで、どこまでも、より高い、進んだ、正しい自分であろうとする自我の思いなど私は手に取るように分かります。何でかと言うと...んなこた、分かりきってるじゃありませんか?
何で私は、鏡で自分を映し出すようなことを彼に突きつけなければならないのか?
これが因縁というものか?...
彼は自分の思い、力の限界にぶち当たるという挫折も知らないし、自分に内省し、反省することが出来ないらしい...だから、“さっさと地獄へ落ちてしまえ!“、と言うのです!(ここだけの話、彼の本当の本心というものも、何となく伝わるものがあるから!)
ああいう酷い言葉を浴びせていたら、私自身に何かがフリかかって来るのかもしれないが...
ヤツの守護霊さんか、○○先生が言わせているのかもしれない?
とにかく、その先生の残された祈りの道、全託の道をああして歪め、迷わせるような言動にはアタシャ、ガマン出来ないのです!
これ、私の本心?
何が私の本心かは読者の判断にお任せしよう...
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回光返照

2024-04-03 09:14:20 | 祈りと瞑想
霊性の道では、言葉に表せば簡単そうな表現がよくあります。
例えば、五井先生なんかは、「いつも神様を思っていたらいいんですよ」「神様の中に思いを入れたらいい」とか、いつも説いておられました。
これといった難しいテクニックを用いる訳でもなしに、そんなことで霊性につながることなど出来るのか、なんて思いがちになります。
そのように言葉に表せば、実に簡単なんです。だからね、私がいつも言うように、神に思いを向けたらいいんですよ!、神を意識したらいいんですよ!...さあ、やってごらんなさい!
出来まっか?...
やろうとしても出来ないと思い、感じるのが本当ではないでしょうか?
では、それはそんなに難しいことなんでしょうか?...これもウンとズレてるようにしか思えません。
思うことや為すことしかなかったら、こういう風になるしかないですよ。
これは、難しいとか簡単だとかってことじゃない!...あなたが思い、為すことじゃなくて意識する、されることなんです。されるという...自分の思い、力だけでそうならない!、そうさせるものにあってなされることなのです。だからこんな簡単なことは無いとも言えるし、為すことは不可能とも言えるのです。
で、やっと本題には入りまして...禅の臨済録に「便に自ら回光返照して、更に別に求めざる」という言葉があります。
回光返照(えこうへんじょう)なんて難しい言葉ですが、どうやら自分の外側を照らす光を内に向けるということらしいのです。臨済禅というのは、これと別のものを求めないらしいのだから大変なもののようです。
して、これを解説しているものに触れてみると、どれも“自分の内側に光を向ければよい!“なんて書いてある。だから誰が向けるのかってことになるでしょ?
現実問題として出来るのか?
これは、実に私がいつも“照明“と呼んでいる、思いを超えたところから照らす光の消息を伝えているものでなくて何であろうか?!
あなたが思い、為すより先に光はあなたの内側をも照らし続けているのです。
それを意識すればいい...それが既にあるから意識出来る、させられるのです。
もうこれは、“南無阿弥陀仏“、則ち無量光に帰依し、頂くことと同じではないか?
意識の次元では、自力も他力も無い、宗派だの流派なんてものも更々無いのです!
霊性の道の根本にあるものというのは!...
言葉にすれば簡単ですよ!
だって、私がやろうとする何かのことじゃないからですよ!
難しい教えもテクニックもありゃしません。
なって来る!...
難しく考えなくても、光が中に入って来る...でしょう?
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照らされるままの真実

2024-04-01 09:16:43 | 意識、照明
ありのままの自分を受け入れる...それが如何にダメで、みっともない自分だろうと!...
今はそうでないのに正しく、進んだ境地になろうと、人にも見せようとする自分は偽物なんだ!
ありのままの自分こそは本当の自分...

な~んてことをいつも言っている訳ですが、そんなダメで悪い自分が何で本当の自分なんて言えるのか?、って思う人も居られるでしょう?
ここで、本当に言いたいことはそういうことじゃないのです!
あなたがダメだろうと、おバカだろうと、正しかろうと、天才だろうとホントはどうでもいいのです。思いを超えたハタラキ、光を受ける...ハタラかれるままに、照らされるままに...こういうことなのです!
本当のことを言えば、本当もウソも真我も偽我も無いのです!...は?
すべてを照らし、映し出し、見透かすものの前ではそれを認め、受け入れる他無いじゃありませんか?、それが真実なのだから!
だから、その神的な照明に映し出された自分が本当の自分なんだ、とそう言っているのです。
真我になるんだという、修行努力なんかして...それが悪いって言うつもりはないですが、もう、これがズレた在り方と言わねばなりません。
私は、照明を受ける(これは現臨にあると言っても同じですが)、そういうもの無しに真我の実現などあり得ない、と言い切ってしまいます!
単純にその自分を超えたもの無しに自分は存在、実存出来ないのですから!
それにある、ということは、その自分の本来性に帰ることと言ってもいいでしょう。
本来からあるものが本当の自分なんだ!...
だから、そこから離れたままの思い、為そうとする自分からはそうなれないのです。
そういう自分は、かくあらねばと思い描いた自分になろうとする...私は正しいのですよ、と。内心は、きっとそうじゃないと思っているから、そう見せようとするんでしょ!
そして、ありのままの自分の本性には目を向けられない...自分の本性、それを映し出す神的なものもホントは恐ろしくてならないのでしょ!
だからだから、ダメでも悪くてもありのままでいい!...照らされるまま、映し出されるままであることが、どんなにラクーで、幸福で、安らぐことであることか!
先のことは、こういうありのままの人間の心の動きのことを言っているまでなのです。
(まあ、天然な人間というのは、それか、それに近いってことは言えるかもしれません。バカなのか、天才なのか分からない!)

こうしてエラそうなこと言ってる私はというと、勿論真我に達しているのです!、なんて言える訳無い!
ただ、受けたまま、感じたままを書いているだけです!
急にバカ陽気になったりするものだから!...


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