人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

公の場と個己の場

2024-11-14 09:42:44 | 求道、探究
私は何度か、例えば超宗派的な宗教的、スピ的な会合とか懇親会のような集まりに参加したことがあります。
そこでは、様々な意見交換も自由になされるのですが、それ故あまり押し付けがましい話は出されないのが普通です。
そういうところで、”私が信じている教えだけが正しい”、といった、独善的、狂信的な言葉を発してしまうことは、モロにその人間の自己中心的な心的態度を公に知らしめることになってしまうのです。つまり彼が所属している教団では、賞賛さえされるようなことがここでは場違いのものと見なされるのです。(多くの宗教団体というものがどういう性格のものかが知れよう!)
だから公的な場というものをわきまえないとならない!...ここまで普通に公の場というものがどういうものかが分かると思います。
しかし、私はそれが宗教、スピ的なことに関係しているのなら特に、そのもっと奥に公共に働き、息づいている、ある種の時空間があるのを時に感知することがあるのです。(もっともこの場合、”公”と普通に理解されている言葉は適切ではないと思いますが...)
それは何かと言えば...どうも私は、”普遍性”という言葉しか思い付きません。
勿論、公的なことが普遍性とは言えません。むしろ多くそれを覆い隠しているものでしょう。しかし、そこにある部分が映し出されることもあるということです。
この普遍性は、公的な人間の集まりだけでもたらされるものではありません。神的なハタラキにあること、神の現臨にあってのものなのでしょう。
つまり神無しに本当の普遍性というものは無いのではないか?(言葉だけは普く通っているようですが!)
この公の場にあっては、個己の場はその中に溶け行って無くなるしかない...って、そんなことは無い!...”公理”をわきまえていたら、自分が何に惹かれ、何に幸福を感じていようと自由ではないか!
”この教えだけ”が、つまるところ”私だけ”という、この相対対立観念が余計だ、ということなのです。
そういう自己中心的、エゴの思いというものは、普遍性から切り離される、浮いてしまうことに他ならないからです。
自分が本当にある宗教的な道に惹かれ、それを求めてやまないものを感じる時、そこに普遍的な何かをも感取しているのではないでしょうか?...けだし神的なものとはそういうものでしょう。
そして、そういう時は、思いが超えられてしまっていたりするものです。そうなると、形ある教えもメソッドもいつの間にか超えてしまうこともあります。
又、世の中の公理と違って、自分を無理に公のものに合わせる必要もありません。
個己はそのままで普遍的なものにつながることが出来るのです。というよりそれは、元々分けることが出来ないのでしょう。
神無しにはつながらない!...人とも自分自身さえも!
だから、神につながらなければならないのでしょう?!...




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