スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

大楠賞争奪戦&第一部定理二六

2013-04-16 18:43:06 | 競輪
 武雄記念の決勝。並びは池田ー浦川の関東,小埜に井上ー小倉の西国,深谷-坂上の中部,藤木ー南の近畿。
 スタートを取った深谷の前受け。3番手が藤木,5番手が小埜,8番手から池田という周回に。残り2周のホームから池田が上昇を開始。バックで深谷を叩くとその外から小埜が踏んで先行。打鐘で脚を使って藤木が4番手を確保。位置を奪われた池田が6番手となり深谷は8番手に。深谷は発進の構えはあったように思いますが,池田の動きなどもあり,なかなかスピードに乗れませんでした。車間を開けていた井上が3コーナー手前から番手捲りを敢行し,これは決まったと思ったのですが,コーナー途中から踏んで捲り追い込んだ藤木が前を飲み込んで優勝。踏み遅れて大外を捲り追い込む形になった深谷がそれでも1車輪差の2着には届き,絶好の展開と思えた井上は半車輪差の3着。
 優勝した京都の藤木裕[ゆたか]選手は昨年の武雄記念が記念競輪の初優勝で,連覇となる記念競輪2勝目。今日は立ち回りのうまさが光りました。とくに打鐘過ぎに踏んで,先行ラインの直後を確保したのが勝因でしょう。おそらくその位置で届くと目論んでいたと思われ,好調期にあったものと思います。

 前回の考察において,僕はみっつの転向,すなわち『エチカ』の解釈の変更を行いました。そしてそのうちのひとつが,第二部定理九系の意味から第二部定理九系の消極的意味への変更でした。
 第二部定理九系の消極的意味と僕がいうときの,消極的の意味に関してはその考察の中で説明しています。しかし本音をいうなら,この説明というのは僕にとっては不本意なものであり,また満足できるものではありませんでした。僕がそのように思うのには以下のような理由があります。
 一般にある事物Xがあって,そのXが消極的であるというとき,僕の考え方では,これはXは積極的なあるものではないとか,Xに関してそれが積極的であるとはいえないということのいい換えにすぎないのです。いい換えればXは消極的であるという言明は,言明文自体としてはある肯定的命題ではあるのですが,実際にはXに関するある否定negatio,もちろんこうした命題はそれ自体で成立しますし,Xについての正しい説明ではあり得ますから,全面的な否定であるとはいい難い一面を有するのも事実ではありますが,少なくともこの命題は,Xに関するある部分的な否定であると解さなくてはならないと思うのです。したがって,もしも一般的な意味において消極的であるということがどのような意味を有するのかということを正しく説明するのであれば,消極的ということばの意味を説明するのではなくて,たとえばXがある積極的なものであるといわれるような場合に,積極的であるということがどういった事態を含意しているのかということを説明するのでなければならないと思うのです。
 そこで今回は,前回のその部分の補足という観点を含めて,スピノザの哲学,なかんずくは『エチカ』において,ある事物が積極的であると主張される場合に,その主張の中にどのような意味を読み取るべきであるのかということを探求していくことにします。そしてその手掛かりとして,第一部定理二六を主たる対象とします。
                         
 「ある作用をするように決定された物は神から必然的にそう決定されたのである。そして神から決定されない物は自己自身を作用するように決定することができない」。
コメント
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