スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

平安賞&第五部定理二九備考

2017-09-03 19:17:02 | 競輪
 向日町記念の決勝。並びは近藤‐和田の千葉,稲垣‐村上‐西岡の近畿,太田‐小倉‐香川の四国で山田は単騎。
 和田がスタートを取って近藤の前受け。3番手に稲垣,6番手に山田,7番手に太田の周回。残り3周のバックで太田が上昇。香川の後ろに山田がスイッチしました。太田は前を叩きには出ず,稲垣に蓋をするような形で和田の外を併走。このまま残り2周のホームを通過。バックに入ると近藤を叩いて先行。打鐘の後で稲垣がうまく山田をどかして4番手を確保。7番手に山田,引かされた近藤が8番手の一列棒状でホームを通過。バックの手前から稲垣が発進していったものの太田のスピードがよく,ほとんど前に出られず,コーナーで小倉に軽く牽制されて失速。直線は番手の小倉が抜け出して優勝。マークの香川が4分の3車輪差で2着。逃げた太田も4分の1車輪差の3着で四国勢の上位独占。
 優勝した徳島の小倉竜二選手は前回出場の和歌山FⅠに続く連続優勝。グレードレースは2006年1月の競輪祭以来の優勝で,記念競輪は2005年5月の大垣記念以来となる7勝目。向日町記念は初優勝。このレースは太田の先行が予想され,それを稲垣ないしは近藤が捲ることができるかどうか,また,稲垣と近藤のどちらが好位置を確保することができるのかということが焦点でした。うまく動いて稲垣は絶好の位置を確保することができたのですが,ほとんど前に出ていけずというレースに。結果的にいえば太田が強かったし,ギリギリのところまで稲垣に蓋をした作戦も巧みであったということでしょう。優勝は小倉になりましたが,むしろ今後の注目選手は太田であるというレース内容であったと思います。

 僕が河井の論考から大きな影響を受けたのはここまでですが,『スピノザ哲学論攷』の主張をもう少し見てみましょう。
                                     
 この考察の最初に述べたように,この問題提起は第一章の第四節でなされています。そして僕の読解によれば,これと関連した記述が第六章の第二節でも展開されています。そこで河井が示しているのは第五部定理二九の備考Scholiumです。
 「物は我々によって二様の仕方で現実として考えられる。すなわち我々は物を一定の時間および場所に関係して存在するとして考えるか,それとも物を神の中に含まれ,神の本性の必然性から生ずるとして考えるかそのどちらかである」。
 一読するとこれは第二部定理八系で示されている個物の存在のふたつのあり方と関連しているように思われます。もちろんそのような読解も間違いではないでしょう。ですがこの備考の肝は,ものが僕たちによって現実として考えられるという点にあるといえます。スピノザはこの備考の後者の考え方について,僕たちがものを永遠の相species aeternitatisの下に考えているといっています。しかしそれは現実としてそう考えられているという点を見落としてはいけません。つまり現実的に存在する事物が,時間tempusや場所の下で考えられているのではなく,永遠の相の下に考えられているのだといっているのです。いい換えれば,事物が現実的に考えられるということは,その事物が時間や場所と関連して考えられるということと同じ意味なのではありません。たとえ事物が永遠の相の下に考えられる場合でも,僕たちはそれを現実的に考えることができるのです。
 したがって,現実的本性actualis essentiaというのは現実的に存在する個物res singularisの本性であると解さなければならないのですが,だからといってその現実的本性は,その個物が現実的に存在することと関連して考えられなければならないというものではありません。むしろそれを永遠の相の下で考えることが可能だから,時間および場所と関連した現実的なものとして考えることができるのです。そして現実的本性と現実的存在は一致するのですから,現実的存在の概念conceptusも同様です。現実性が現実性であり得るのは,それが永遠であるからだというべきなのです
コメント
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