スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

長良川鵜飼カップ&第四部定理五八

2017-09-10 19:18:28 | 競輪
 岐阜記念の決勝。並びは平原‐成清‐岡村の東日本,竹内‐浅井‐坂口の中部,野原‐中井の近畿に友定。
 互いに見合ってだれも出ていかないのを見て平原がスタートを取って前受け。4番手に竹内,7番手に野原で周回。残り3周のバックから野原が上昇して竹内に蓋をする形で追走。野原が平原を叩きにいかないとみて残り2周のホームで竹内が引いていって7番手に。誘導を斬らずに待っていた平原をバックから発進した野原が叩いて打鐘。引いていた竹内も発進して先行争いに。ホームではふたつのラインが併走する形となり,牽制された浅井が竹内から離れました。単独の捲りになった竹内はコーナーでは野原を叩く勢いでしたが野原が自らブロック。このために内が開き,そこを突いた平原がバックの中間で先頭に。マークの成清とふたりで抜け出しました。やや車間を開けていた成清が直線から踏み込むと平原を差して優勝。平原が半車輪差の2着で東日本ラインのワンツー。成清に続く形になった野原が粘って2車身差の3着。
 優勝した千葉の成清貴之選手は2014年10月の千葉記念以来となる記念競輪2勝目。このレースは野原と竹内の先行争いになることは予測の範囲内。平原の走行は,野原が自らブロックにいって内は開くことを見越していたのではないかと思えるほど見事なもの。そういう意味では各選手の特徴を研究していた平原の作戦勝ちといえる内容であったと思います。成清がそういうケースもあり得ると考えていたのかどうかは分かりませんが,ややアクロバティックな走行に離れずマークできたのも,追込選手としてはさすがであったといえるでしょう。

 受動的な自己満足だけを抽出し,それを自己愛philautiaという別の名称でスピノザが示したのには理由があったと僕は考えています。すると,受動的な名誉gloriaだけを抽出し,それを虚名vana gloriaという名称で示したことにも何らかの理由があったことになるでしょう。たとえば第三部定理三〇備考では,名誉という感情affectusが否定的な意味合いから記述されているのは確かですが,スピノザは感情としての名誉を全面的に否定していたというわけではありません。つまり名誉という感情が高慢superbiaという感情の源泉となり得るということはスピノザも認めていると解するべきですが,このときに高慢が全面的に否定されなければならない感情であるからといって,名誉という感情まで全面的に否定する必要はないとスピノザは考えていたのです。これはちょうど,高慢という感情が明らかに自己満足acquiescentia in se ipsoの一種であると解せるからといって,自己満足という感情は全面的に否定される必要はなく,むしろそれが精神の能動actio Mentisから生じる限り,第四部定理五二に示される通り,それは人間が感ずることが可能な最高の感情であるとスピノザがみていることと,ほぼ類比的な関係にあるといっていいでしょう。
                                     
 僕は自己満足と名誉を,原則的に別種の感情であるとみますから,能動的な自己満足が最高の満足である以上は,名誉が最高の満足であることはできないと解します。ですが最高ではなくても,能動的な名誉は人間に高い満足を与え得るであろうと考えます。いい換えれば名誉という感情を一律的に否定されるべき感情と解する必要はない,あるいはそういう解釈は誤りであると考えます。そしてスピノザ自身も,第四部定理五八備考で虚名について言及する直前の第四部定理五八では次のようにいっています。
 「名誉は理性に矛盾せず,理性から生ずることができる」。
 この定理Propositioそのものは感情に対する評価を含んでいるとはいえないかもしれません。しかし少なくともスピノザが,理性すなわち精神の能動から生じる名誉という感情が存在し得るということを認めていることは確定できます。いい換えれば第三部定理三により,十全な内部の原因の観念ideaを原因とした名誉という感情が存在し得るのです。
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