「親愛なる者へ」は,楽曲のタイトルでもありますが,そのままドラマのタイトルでもありました。これは僕が学生時代のドラマですから,25年ほど前だったと思います。僕は現在は一切のテレビドラマを視聴しませんが,学生時代は時間にも余裕がありましたから,視たこともあり,このドラマもすべて視たのではないかと思います。記憶が定かではないのは,内容に関してはほとんど印象に残っていないからでしょう。
ただ,このドラマは,中島みゆきのファンには楽しめる要素を有していました。本人がゲスト出演したこともそうですが,彼女の作品の歌詞がそのまま登場人物のセリフに使用されるということがあったからです。ドラマのストーリーの印象はほとんど残っていなくても,こちらの方は今でも覚えています。だからストーリーは思い出せなくても,確かにドラマを視たとは断言できるのです。
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使われた楽曲のひとつが「それ以上言わないで」です。「ノスタルジア」や「肩に降る雨」が収録されている「miss M.」の中の一曲です。
君は強い人だからいいね1人でも
だけど僕のあの娘は
この部分が一言一句違わずに使われたように思います。登場人物の名前は思い出せませんが,演じたのは佐藤浩市さんであったと記憶しています。
歌詞は次のように続きます。
… それ以上言わないで
この部分は言われた女が言うべきセリフですが,こちらは放送にはありませんでした。でもこの曲を知っていれば,この女は本当はそう言ったということが分かるような演出になっていたのです。
『スピノザ哲学論攷』における第三部定理三〇備考を援用した探求は,外的な原因の観念ideaであれ内的な原因の観念であれ,もしその観念の上での前提が現実の前提と一致しているなら,内的な原因と外的な原因も一致するのだから,結果も一致するであろうと続いています。
このうち,原因が一致しているなら結果も一致するということは第一部公理三から明白であるといわなければならず,何も問題にする部分はありません。次に,観念の上での前提が現実の前提と一致するというのは,第一部公理六により,その観念が真の観念idea veraであるということを意味すると考えなければなりません。つまりある喜びlaetitiaの原因の観念が真の観念であるなら,その原因が内的であろうと外的であろうと,その観念を原因として伴った喜びを感じるということは一律であると河井はいいたいのだと僕は解します。
これ自体は正しいです。というのは,第四部定理三五により,人間は理性ratioに従う限りでは本性naturaの上で一致するからです。いい換えれば,もしも現実的に存在するある人間が,理性から生じる何らかの観念を原因として喜びを感じるならば,それによって喜びを感じるのはその人間だけであるというわけではなく,現実的に存在するすべての人間が,理性に従う限りでは,その観念を原因として喜びを感じるであろうからです。したがって,ある人間が理性から生じる名誉gloriaという喜びを感じるときには,その人間は内的な原因の観念である自身のある行為の観念を原因として名誉を感じているわけですが,それとは別の人間がそれと同じ観念を理性的に有した場合には,その人はその別の人の行為の観念を原因として伴った喜び,いい換えれば外的原因を伴った喜びを感じることになるでしょう。したがって,行為をなす人間をAとし,Aの行為を理性的に認識する人間をBとするならば,Aが理性的に名誉を感じるとき,Bも理性的であるなら,BはAの観念を原因として伴った喜びを感じるのでなければなりません。つまり第三部諸感情の定義六により,BはAへの愛amorという喜びを感じることになります。
ただし,これはあくまでも仮定の話であり,絶対的な前提ではありません。
ただ,このドラマは,中島みゆきのファンには楽しめる要素を有していました。本人がゲスト出演したこともそうですが,彼女の作品の歌詞がそのまま登場人物のセリフに使用されるということがあったからです。ドラマのストーリーの印象はほとんど残っていなくても,こちらの方は今でも覚えています。だからストーリーは思い出せなくても,確かにドラマを視たとは断言できるのです。
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使われた楽曲のひとつが「それ以上言わないで」です。「ノスタルジア」や「肩に降る雨」が収録されている「miss M.」の中の一曲です。
君は強い人だからいいね1人でも
だけど僕のあの娘は
この部分が一言一句違わずに使われたように思います。登場人物の名前は思い出せませんが,演じたのは佐藤浩市さんであったと記憶しています。
歌詞は次のように続きます。
… それ以上言わないで
この部分は言われた女が言うべきセリフですが,こちらは放送にはありませんでした。でもこの曲を知っていれば,この女は本当はそう言ったということが分かるような演出になっていたのです。
『スピノザ哲学論攷』における第三部定理三〇備考を援用した探求は,外的な原因の観念ideaであれ内的な原因の観念であれ,もしその観念の上での前提が現実の前提と一致しているなら,内的な原因と外的な原因も一致するのだから,結果も一致するであろうと続いています。
このうち,原因が一致しているなら結果も一致するということは第一部公理三から明白であるといわなければならず,何も問題にする部分はありません。次に,観念の上での前提が現実の前提と一致するというのは,第一部公理六により,その観念が真の観念idea veraであるということを意味すると考えなければなりません。つまりある喜びlaetitiaの原因の観念が真の観念であるなら,その原因が内的であろうと外的であろうと,その観念を原因として伴った喜びを感じるということは一律であると河井はいいたいのだと僕は解します。
これ自体は正しいです。というのは,第四部定理三五により,人間は理性ratioに従う限りでは本性naturaの上で一致するからです。いい換えれば,もしも現実的に存在するある人間が,理性から生じる何らかの観念を原因として喜びを感じるならば,それによって喜びを感じるのはその人間だけであるというわけではなく,現実的に存在するすべての人間が,理性に従う限りでは,その観念を原因として喜びを感じるであろうからです。したがって,ある人間が理性から生じる名誉gloriaという喜びを感じるときには,その人間は内的な原因の観念である自身のある行為の観念を原因として名誉を感じているわけですが,それとは別の人間がそれと同じ観念を理性的に有した場合には,その人はその別の人の行為の観念を原因として伴った喜び,いい換えれば外的原因を伴った喜びを感じることになるでしょう。したがって,行為をなす人間をAとし,Aの行為を理性的に認識する人間をBとするならば,Aが理性的に名誉を感じるとき,Bも理性的であるなら,BはAの観念を原因として伴った喜びを感じるのでなければなりません。つまり第三部諸感情の定義六により,BはAへの愛amorという喜びを感じることになります。
ただし,これはあくまでも仮定の話であり,絶対的な前提ではありません。