スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

書簡七十&精神の能動

2017-09-15 19:02:34 | 哲学
 書簡四十五書簡四十六は遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。スピノザとの関係を秘匿しておきたかったライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizはこのことで編集者のひとりであったシュラーGeorg Hermann Schullerを叱責し,シュラーはこれらの書簡は光学についてしか書かれていないのだから問題ないと弁明したという逸話が『宮廷人と異端者』にあります。シュラーの主張にも一理あるということは,ほかの書簡から説明できます。
                                     
 四十五と四十六から,ライプニッツはスピノザと秘密裡に文通をしたいと思っていて,スピノザはそれに応じたことは分かります。ですがほかの書簡は遺稿集に掲載されなかったので,実際にその文通が行われた形跡は遺稿集にはありません。しかし実際にはその後も文通はあったのです。両者の間の書簡が発見されていないのは,おそらくシュラーがそれらをすべて握り潰したからではないかと推測されます。つまり少なくともシュラーは,ライプニッツの意向に対して一定の貢献は果たしたと僕は考えています。
 実際に文通があったことは,これも遺稿集には掲載されなかった書簡七十から確定することができます。これはシュラーがスピノザに宛てたものです。
 基本的にこの手紙は,パリに滞在中のチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausの近況を報告したものです。チルンハウスによる哲学的質問がひとつ含まれていますが,おそらくシュラーの軽卒によってよく意味の分からないものになっています。そして最後に,チルンハウスがパリでライプニッツと懇意になり,『エチカ』の草稿を読ませるに値する人物であるから,その許可を求めています。そのライプニッツを説明する文章の中に,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を高く評価していて,この主題の手紙をかつてスピノザに送った人物だという意味のことが書かれています。これはおそらくライプニッツがチルンハウスに告白したのでしょう。
 なので,四十五と四十六以外にも,スピノザとライプニッツの間には間違いなく文通がありました。そしてそれは,哲学的内容に関するものであった筈です。

 名誉gloriaについていえば,それは第四部定理五八から分かる通り,理性ratioと矛盾することはなく,理性すなわち精神の能動actio Mentisからも生じ得る感情affectusであるということをスピノザは認めています。そして第四部定理五二は,自己満足acquiescentia in se ipsoも同様に理性から生じ得るといっています。よって,第三部定理三〇備考は,自己満足と名誉が明らかに別の感情であるといっていて,第三部諸感情の定義二八は高慢superbiaが自己満足の一種であるといっているようにみえますが,実際にスピノザの各々の感情に対する評価から鑑みれば,自己満足という感情に対して高慢という感情と名誉という感情のどちらが類似した点を多く有しているかといえば,それは自己満足の一種である高慢より,自己満足と別の感情とみられる名誉であるということも可能なのです。したがって,一般に内部の原因の観念ideaを伴った喜びlaetitiaについてそれを自己満足とみなし,名誉はその自己満足の一種であるという見方をすることは,スピノザによる定義Definitioから外れるかもしれませんが,スピノザがいわんとするところを正しく理解するという観点からいえば,ひどい過ちを犯しているどころか,むしろスピノザの哲学の主旨を汲み取ろうとしている姿勢の表れであるということさえできるのです。なのでもしも河井がそのように解しているのだとしても,僕はそれを批判しようという気にはなりません。また僕自身も,原則的に自己満足と名誉は別種の感情であるとみなしますが,ときには名誉を自己満足の一種とみる場合もあり得ます。
 このときに重要なのが,精神の能動という観点であることは疑い得ないでしょう。したがって,精神の能動がスピノザの哲学において何を意味しているのかは,正しく理解しておかなければならないことになります。
 第三部定義二は,能動を一般的に定義しています。精神の能動とはこれが精神に適用されたものです。すなわち精神の能動とは,その精神が十全な原因causa adaequataとなって結果を生じさせる思惟作用のことです。いい換えれば第二部公理三の意味により,精神が十全な原因となってある観念が生じることです。こうした観念から自己満足も名誉も生じ得ます。しかし希望spesとか高慢は生じ得ないのです。
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