スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ひまわり“SUNWARD”&第三部定理三〇備考

2017-09-05 19:22:09 | 歌・小説
 「流星」が収録されているアルバムは「LOVE OR NOTHING」です。愛か無か,ですからこのタイトルもなかなか凄まじいものであると思います。収録されている楽曲の中で,そのタイトルを代表するのが「ひまわり“SUNWARD”」でしょう。
                                 

     あのひまわりに訊きにゆけ あのひまわりに訊きにゆけ
     どこにでも降り注ぎうるものはないかと
     だれにでも降り注ぐ愛はないかと
      たとえ どんな名前で呼ばれるときも
      花は香り続けるだろう
      たとえ どんな名前の人の庭でも
      花は香り続けるだろう


 これまでに紹介したものでいえば,「MEGAMI」とか「泣きたい夜に」といった楽曲の流れを汲むものだといえるでしょう。あるいは「白鳥の歌が聴こえる」とか「泣かないで アマテラス」といった作品群も,僕はこの流れの中のものとして聴いています。
 花が咲いているうちは愛です。ですがもしそれが枯れてしまったら,そこは無なのです。

 第三部定理三〇の備考Scholiumの当該部分をそのまま記述します。
 「我々は内部の原因の観念を伴ったこの喜びを名誉と呼び,これと反対する悲しみを恥辱と呼ぶであろう。しかしこれは人間が他から賞賛されあるいは非難されると信ずるために喜びあるいは悲しみを感じる場合のことである。そうでない場合は,内部の原因の観念を伴ったこの喜びを自己満足と呼び,これに反対する悲しみを後悔と呼ぶであろう」。
 この備考から理解できるのは,まず名誉gloriaと恥辱pudorが概念の上での反対感情であって,また自己満足acquiescentia in se ipsoと後悔も同様に概念上の反対感情であるということです。そして次に,名誉と自己満足,そして恥辱と後悔は別の感情affectusであって,一方が他方の一種であるとみなすことはできないということです。ある特別の場合とその他の場合に分類されているのですから,僕は名誉が自己満足の一種であり,恥辱は後悔の一種であるというように解してはならないと考えます。ですから僕は名誉と自己満足を別種の感情であるといったのです。
 河井の論考はこの部分に言及し,しかし名誉については何も語らず自己満足についてのみ語っているのですから,名誉を自己満足の一種であると解しているのだと読解できなくありません。上述の理由から僕は原則的にそのような読解は誤りであるとみますが,一方で,『エチカ』で自己満足および名誉という感情がどのような文脈で語られているのかということを視野に入れた場合は,そのような解釈も絶対的に許容されないというようにも考えません。そこでこのことについて考察の対象にします。
 この備考では,人間が名誉という感情を抱くことについて,それが表象imaginatioにすぎない場合があるということが強調されています。いい換えれば,現実的に存在する人間は,混乱した観念idea inadaequataによって名誉を感じることがあるということが強調されています。実際に第二部定理一七のような表象は現実的に存在する人間には頻繁に生じますし,第二部定理一七系にあるような想起memoriaもまた現実的に存在する人間にはしばしば生じます。そして第三部定理二五により,現実的に存在する人間は自分が喜びlaetitiaを感じることを好んで表象するimaginariからです。
コメント
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