スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

印象的な将棋⑯-6&スピノザの存在論

2020-05-02 19:22:37 | ポカと妙手etc
 ⑯-5の第2図は,先手が放置して☖5七歩成と王手をされて玉を吊り出されては大変です。かといって☗5六同歩と取るのは☖4六角で終了です。なので☗5四飛と王手を掛けるのはこの一手。
                                        
 これに対して☖5二飛は飛車交換して先手がよいでしょう。☖5二金も☗6三銀や☗7一角が残るので☖4一玉と逃げました。
 ここも☖5七歩成とされると☗同飛は☖4六角があります。なので☗5六飛と歩を払いました。これが銀取りになっているので☖6五銀はこの一手。
 今度は☗8六飛からの飛車交換は後手に分がありそうです。右に逃げる手はあったかもしれませんが,成れるのですから☗5三飛成とするのは自然に思えます。
 後手はこれが読み筋だったようで☖5六歩。☗同歩は☖3五角で終了なので☗7九王と早逃げしました。それでも後手は☖3五角。
                                        
 後手の攻めは快調ですが,先手が悪くなったというわけでもありませんでした。

 第一部公理一の意味は,存在するものは実体substantiaであるか,そうでなければ実体の変状substantiae affectioである様態modiであるかのどちらかであるということでした。つまりそれ自身のうちにあるesse in se実体と実体のうちにある様態のどちらかだけが存在するのであり,それ以外には何も存在しないのです。これは存在するあらゆるものが実体のうちにあるという意味で,内在の哲学の論拠になるのですが,それと同時に,それ自身のうちにあらゆるものを含む実体が存在するという意味で,一の存在論でもあるのです。内在の哲学を採用するとその存在論が必ず一の存在論になると結論していいのかどうかは僕には分かりません。しかし少なくともスピノザの哲学のように,内在論を徹底的に推進していけば,その存在論が一の存在論にならざるを得ないのは間違いないところだと思います。
 さらにこの公理Axiomaには僕が第一部公理一の実在的意味といっているものが含まれています。すなわち第一部公理一を公理として採用する限り,実体が存在するか,そうでなければ何も存在しないかのどちらかでなければならないということが帰結するのです。しかし何も存在しないということはそれ自体で不条理でしょう。したがって実体は確実に存在するのです。いい換えれば,それ自身のうちにあるものは確実に存在するのです。つまりそれ自身のうちにあるものというのは,仮定としてあるいは名目的にそのようにいわれるのではなく,実在的なものとしてそのようにいわれていると解さなくてはなりません。こちらの説明の方が,なぜスピノザの哲学が,多の在論ではなくて一の存在論であるのかということを分かりやすく理解できるかもしれません。
 何度かいっているように,『エチカ』の第一部の最初の方には,実在的な意味はもたず,名目的にそのようにいわれている定理Propositioがいくつか存在しています。しかしそれが実在的な段階に突入すると,一の存在論はさらに徹底されます。それが第一部定理一四および第一部定理一四系一で,そこでは存在する実体はDeusだけであるということと,神は唯一であるということが主張されています。つまり単に実体のうちにすべてが存在するだけでなく,実体自体が一なのです。
コメント
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