スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ワンダーランドカップ&公理論の必要性

2020-05-25 18:58:12 | 競輪
 昨日の宇都宮記念の決勝。並びは渡辺雄太‐堀内の南関東,野原‐浅井の近畿中部に神山,松浦‐渡部哲男の瀬戸内,中川‐大槻の同期。
 大槻がスタートを取って中川が前受け。3番手に渡辺雄太,5番手に松浦,7番手に野原で周回。残り2周のホームを過ぎると野原が上昇開始。バックで堀内の横あたりまで来ると渡辺雄太が動き,中川を叩きました。野原はその外から上昇し,打鐘で渡辺雄太を叩いて前に。4番手に渡辺雄太,渡辺雄太に続いた松浦が6番手,引いた中川が8番手の一列棒状に。このままペースアップせずに進み,ホームを過ぎてから野原の抑え先行に。渡辺雄太がバックから動きましたが,浅井が野原との車間を開けて待ち構えていたため,それ以上は前に出られませんでした。浅井は直線に入ってから踏み込んで優勝。浅井マークの神山が1車身差の2着でこのラインのワンツー。外から追い込む形になった松浦が4分の3車身差で3着。
 優勝した三重の浅井康太選手は前回出走の高知記念に続いての優勝で記念競輪28勝目。宇都宮記念は2013年以来の2勝目。このレースは浅井と松浦の脚力が上位。浅井は自力ではなく野原の番手を選択しましたが,その野原が先行してくれたので有利になりました。競輪は開催の中止が相次いで,出走機会が激減しているのですが,間隔があると疲労が取れて力を出せるということがままあります。これからしばらくの間は展開よりも脚力を重視した方がいいかもしれません。

 それが数学的な対象ではないとしても,存在しないものを存在論に組み込むことは可能であると僕は認めますから,バディウAlain Badiouが集合論を存在論の文脈で語ること,いい換えれば集合論を存在論のひとつであるとみなすこと自体は僕は否定はしません。ただしこれについて,スピノザがどのように解するかは分からないとしておきます。ただ,もしもスピノザがそのような,存在しないものが組み入れられているものは存在論ではないというのだとしても,現状の考察において求めているのは,集合論を存在論であるとスピノザは認めるのかということなのではなくて,存在しないものが組み込まれている集合論を数学として,正確にいえば学知scientiaとしての数学として認めるのか否かということなのですから,スピノザが存在しないものについての論理を存在論としてみなすかどうかということが影響を及ぼすことはないと思います。
                                        
 スピノザは分析としての数学には大きな関心を寄せず,公理論的な証明Demonstratioばかりを行っていたと上野は言っていますが,その理由のひとつとして,絶対的なものとしての量,分割することができない量という概念notioをスピノザは必要としていたということがあげられます。このような量というのは,経験に訴えることによって人間の知性intellectusが把握できるものではないため,公理論的な仕方で定義Definitioを与え,知性がそれを概念するconcipereことができるようにする必要があるからです。僕はスピノザが公理論的な証明を行っていた主要な理由がこの点にあったとは考えませんが,少なくともそうした量というのは,公理論の中でしか示すことができないということだけは確かなことだと考えます。
 バディウは,存在論は多の存在論でなければならず,多の存在論は空を必要とし,空は非実在的なものであるがゆえにそれは公理論として示されなければならないといっています。これも,非実在的なものについて,それは非実在的であるがゆえに人間の経験に訴えることはできないと解するなら,その直接的な原因causaとなっている概念には量と空という相違はあるものの,スピノザと同じような理由,あるいは一致した理由から公理論を必要としたとみることができるでしょう。
コメント
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