スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

入手の困難性&存在論と数学

2020-05-15 19:13:25 | 哲学
 僕が規定した羨望という感情affectusは,羨望を抱く相手に対する同類意識が高まれば高まるほど,その感情を抱きやすくなり,また抱いた感情が大きくなりやすいということが分かりました。そしてこれとは別に,ほかの条件が一致するなら,この羨望という感情を大きくしやすい別の要素があります。
 羨望という感情は,ある人間が入手していない喜びlaetitiaという感情を,他者が入手して喜んでいる場合に,感情の模倣imitatio affectuumを介してその喜びを入手することに向う欲望cupiditasでした。このとき,その喜びを自分も入手するということについては,一律に規定することはできません。どんな人間にとっても,それをいまだに手にしていないとき,それを入手することについては,容易であると表象される場合もあれば,困難であると表象するimaginari場合もあるからです。現実的にいっても,僕たちには得やすい喜びと得難い喜びがあるということは,僕たちは経験的に知っている筈ですから,このこと自体はこれ以上の説明は要さないでしょう。この場合に,それが自分にとって得難い喜びであると表象されるときの方が,それは得やすい喜びであると表象されるときよりも,それを手にした人に対する羨望は,ほかの条件が同一であるなら大きくなるのです。
 あることの困難さとか容易さというのは,実際にはそのことそのものの本性essentiaや特質proprietasであるというわけではなく,僕たちの認識cognitioに完全に依存します。しかし僕たちが実際にある事柄については容易であると認識し,別の事柄については困難であると認識するcognoscereことは,一般的に同様に,つまり万人が同様に認識するわけではありませんが,諸個人がそのような認識を有するということはあるのです。よってこのことによって羨望の大きさが左右されるということもしばしば生じるのです。
 ここからさらに別のことも分かります。Aがある喜びを入手し,BとCはそれを入手していないとしましょう。このとき,その喜びを入手することをBは困難と表象し,Cは容易と表象するなら,実際に上述の前提からこのような事象は生じ得るわけですが,この場合は他の条件が同じなら,Bの方がCよりも大きな羨望をAに対して感じるのです。
 入手の困難性の認識は,羨望という感情の度合に対して,同類意識の高さと同じように,強い影響を与えます。

 メイヤスーQuentin MeillassouxがいうにはバディウAlain Badiouは数学は存在論であるというテーゼを立てていました。このテーゼは,近藤がバディウの主張を要約するときにも原点となっているものです。したがってバディウは確かに数学は存在論であると考えていたのでしょう。このゆえに,バディウの立場からしてみれば,数学と存在論は切り離せないものです。よって,もしバディウが,自分の主張する存在論と,スピノザの存在論との間に齟齬があるあるいは対立があると判断するなら,バディウはその齟齬ないしは対立を,単なる存在論的な齟齬であり対立であると解するのではなく,数学的な対立でもあると解することになるでしょう。そして実際にバディウの主張とスピノザの主張との間には,前者が多の存在論であり後者は一の存在論であるという対立があり,またそのゆえに前者には空があるけれど後者には空はないという齟齬つまり対立があるのですから,バディウが自身とスピノザとの間には数学的な対立があると解したとしても,たとえスピノザはカントールGeorg Ferdinand Ludwig Philipp Cantorの数学つまり集合論を知らなかったという事情を考慮するにせよ,間違ってはいなかったと思います。
                                        
 僕がここでいうのは,しかし僕はここではそのようなバディウの立場には立たないということです。あるいは同じことですが,僕は数学は存在論であるというテーゼは立てないということです。スピノザは方法として幾何学的方法が優れていると考えていたことは間違いありません。そしてそれを最良の数学的方法であると認識していたのも間違いありません。これらのことは『主体の論理・概念の倫理』の考察でも参照した,『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』におけるマイエルLodewijk Meyerによる序文から明白だといえます。しかしだからといってスピノザは存在論も数学であると考えているわけではなく,存在論を解明する方法として最善の方法は数学的方法であるといっているのだと僕は解します。いい換えれば数学が幾何学的方法によって解明されるのと同じように,存在論ももしそれが解明されるのであれば,幾何学的方法によって解明されるべきなのだし,幾何学的方法によって最も理解が容易なふうに解明することが可能であるといっているのだと解します。
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