スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

印象的な将棋⑯-7&空の不在

2020-05-12 19:05:17 | ポカと妙手etc
 ⑯-6の第2図は龍取りですから,先手は龍を逃げなければなりません。逃げ場所は3つありますが,☗5五龍は☖5七歩成が厳しく後手の勝勢。☗6三龍は☖6二飛で先手の龍と後手の飛車の交換が避けられないので先手の損。なので☗6四龍とするほかありません。
                                       
 この手は金銀の両取りになっています。6五の銀はともかくこのまま王手で6一の金を取られてはいけません。なので☖6二飛として銀取りを受けるのは当然でしょう。
 この将棋は⑯-3でいったように,先手から誘導したものです。ただ後手の対応の仕方により,先手としてはあまり変化する余地がないままここまで進みました。そしてここにきて,先手にはふたつの有力な変化がある局面に至りました。ひとつは☗6三銀と飛車取りに打って6五の銀を取りにいく順で,もうひとつが☗6三角と王手をして6五の銀を取りにいく順です。実戦は☗6三銀と打ちましたが,先手が一手負けの順に進みましたので,ここでは☗6三角の方がよかった可能性はあります。
 ☗6三銀は王手ではありませんので後手は☖5七歩成と指しました。ここでは飛車は取れませんので先手は☗7七銀と玉の逃げ道を作ります。そうしておいて後手は☖8二飛と逃げました。
                                       
 何もせずに飛車を逃げたのが好手で,ここからは後手の勝ち筋に入っているようです。

 分割することができない絶対的な量から,個々の分割することが可能な有限finitumの量が発生することを示しているのが第一部定理一六です。もちろん,量として規定されるのは延長の属性Extensionis attributumに属するものだけです。属性は無限に多くあり,この定理Propositioはそれらの属性についても同じことをいっています。ただ,どういう場合であっても,絶対的なもの,無限なものから有限であるものが発生するとこの定理はいっているのであり,延長の属性に属する量はそのひとつです。
 これがスピノザの実在論の原理であると,上野はいっているのです。上野はそれを,あるものすべてという存在existentiaのドメインを確定してしまう方法だと述べています。もっともこの点は,実在論の可能性について言及している部分なので,ここでは詳しい説明を省きます。現在の考察との関連で僕が重視したいのは,スピノザは上野がいうあるものすべてというのを,神Deusのうちにあるものとして規定していることです。それが第一部定理一五です。そして何より注意したいのは,あるものすべてが神のうちにあり,なおかつ神なしには何もあることができないとするなら,端的にあるものだけがすべてで,それ以外に何かがあるという余地はないということです。
 バディウAlain Badiouは,存在論が多の存在論であるなら,多は空でなければならないといっていました。ところがスピノザの実在論では空があるという余地はありません。このことがバディウにとっては大きな問題点でしたし,また近藤が,バディウにとっての唯一の理論的なライバルがスピノザの『エチカ』であるといったことの意味であったと思われます。したがって,もしもこの観点からバディウがスピノザの公理論を理解することができなかったという,『主体の論理・概念の倫理』における近藤の発言を解するなら,バディウが理解できなかった,あるいは同意することができなかったのは,公理論そのものではなかったのはもちろん,幾何学的方法そのものでもなく,第一部定理一五であったと解するのが適当であると僕は考えます。幾何学的方法を採用すると,必ず第一部定理一五に示される事柄が導き出されなければならないとは,僕には考えにくいからです。
コメント
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