スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

日刊スポーツ賞東京湾カップ&多と空

2020-05-07 18:56:11 | 地方競馬
 昨日の第34回東京湾カップ
 チョウライリンは立ち上がって2馬身の不利。外の方から被せつつ強引にサンスクリットがハナへ。2番手にはマーヴェルクエストとエメリミットとレイワデジタル。2馬身差でプレストシャインとアマルインジャズ。7番手にデスティネとシナノパワー。3馬身差でヘブンリーキス。10番手にマンガン。4馬身差でドテライヤツ。6馬身差の最後尾にチョウライリン。ハイペースでした。
 3コーナーからエメリミットが逃げるサンスクリットに並び掛けていき,コーナーの途中で前に出て先頭で直線へ。この時点で追ってきたのはデスティネでしたが,直線に入るとエメリミットが突き放して抜け出しました。大外から差し脚を伸ばしてきたのがマンガンで,デスティネを差して2番手に上がるとさらにエメリミットとの差もぐんぐん詰めていき,ついには差し切って優勝。エメリミットがクビ差で2着。デスティネが3馬身差で3着。
 優勝したマンガンは南関東重賞初制覇。このレースは南関東重賞で入着していた馬と,条件戦を勝ち上がってきた馬との激突。結果的に前者が1着と2着,後者が3着となりましたから,すでに南関東重賞に出走して馬たちの方が,平均的な能力は上位であったと考えてよいでしょう。これまでの戦績から,トップクラスの馬たちとは歴然とした差があると考えなければならないでしょうが,末脚が鋭いタイプなので,極端なハイペースのレースになれば,そうした馬たちを相手にしても勝つというケースがあり得るかもしれません。母の父はアグネスタキオン。馬名は麻雀の満貫だと思います。
 騎乗した川崎の山崎誠士騎手は先週の羽田盃に続いての南関東重賞15勝目。第30回以来4年ぶりの東京湾カップ2勝目。管理している川崎の田島寿一調教師は南関東重賞2勝目。東京湾カップは初勝利。

 多の存在論と集合論とを結びつけるのは,空あるいは空虚という概念notioです。ただし僕は数学には詳しくないので,数学における,あるいは集合論における空という概念がいかなるものであるかよく分かりません。また,この点に関しては『〈内在の哲学〉へ』でも『主体の論理・概念の倫理』でも説明されていません。そこで,多の存在論と集合論がいかにして空という概念によって結束するのかということは脇に置いておき,バディウAlain Badiouがそのようにみなす論理構成だけを確認しておきます。これについては近藤が簡潔な説明を与えています。
                                        
 まず基本となるのが,バディウが第一のテーゼとして,数学は存在論である,というときの,存在existentiaが多であるということです。このとき存在が多であるということのうちには,存在は一ではないという意味が含まれているのですが,たぶんバディウはそのような消極的な意味として存在は多であるといっているのではなく,積極的な意味において存在を多と規定しているものと僕は解します。
 次にバディウは,この多は一の多ではないという意味のことを主張します。ここでも一の多というのが具体的に何を意味するかということは僕には不明です。ただ,たとえばあらゆる様態modusは多として存在するけれども,それはすべて様態的変状modificatioに様態化した一としての神Deusであるというようにスピノザの哲学を解すれば,スピノザの哲学は多ではあり得ても一の多であるということは可能なのであり,バディウはこのような意味での多も認めないというように僕は解します。ただしバディウがいっているのは,多は一の多ではないということよりも,多の多であるという点にあると解するのが適切かもしれません。つまりここでもバディウは消極的に,多は一の多ではないといっているのではなく,積極的に多は多の多であるといっているのだと解するのがよいのだろうと僕は思っています。
 存在が多の多である場合は,多は空から成立しなければならないことになります。なぜそうなるのかは分かりませんが,バディウはそのように主張していると近藤はいいます。同時にそれには疑問を投げ掛けないので,この点には合理性があるのだと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする