スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

カーンの雑感②&ひとつの見解

2020-05-28 19:12:27 | NOAH
 カーンの雑感①で示しておいたことに十分な考慮を払いつつ,キラー・カーンの証言を紹介していきます。
 カーンは日本プロレスに入門してすぐ,吉村道明の付き人になりました。吉村の証言というのを僕は目にしたことがありませんから,吉村がどういう人物であったのかはほかの人の証言から類推するほかないのですが,吉村のことを悪く言うような発言を僕は目にしたことがありません。むしろプロレスラーとしては,かなり一般常識を兼ね備えた人物であったと解してよさそうに思えます。
 吉村について最も多くのことを語っているのはジョー・樋口です。樋口は大阪の全日本プロレス協会というところでプロレスラーとしてデビューしたのですが,そのときに先輩として吉村がいました。この団体は1956年の夏に解散。本拠を三島に移して山口道場として再開しました。樋口はこの夏でプロレスラーを引退するつもりでしたが,吉村に誘われて,10月に日本プロレスを含めた4団体が参加する2日間のトーナメントに参加しました。これで山口道場も持ち直したのですが,その後に大阪で開催した大会の売り上げをマネージャーが持ち逃げしたため消滅。吉村は力道山に誘われて日本プロレスに移籍し,樋口は吉村の推薦でやはり日本プロレスに入団することになりました。
 1971年12月に猪木が日本プロレスを追放された後,日本プロレスの経営陣の放漫ぶりが新聞紙上を賑わせるようになりました。樋口はそのことにショックを受けて退社を決意。それを吉村に相談したところ,吉村は樋口の覚悟を引き留めることはできないし,自分も身を引くつもりであると語ったと樋口は証言しています。
 馬場が退社したのは1972年7月で,樋口は自身の退社直後に馬場から連絡を受けています。つまりこれは1972年の出来事の筈です。吉村はそのときには身を引くことはなかったので,カーンは吉村の付き人を続けていました。吉村が引退したのは1973年3月。その時点で樋口はすでに全日本プロレスで仕事をしていました。吉村の引退の時期は,カーンのプロレスラー人生にも影響を与えたかもしれません。

 たとえばある公理論者がいるとして,その人が,定義Definitioというのは定義されるもののことを正しく説明するものでなければならないという要件を与えたとしましょう。するとこの人は,空を定義することを認めることはできません。あるいはもっと広く,非実在的なものを定義することを肯定することはできません。定義されるものを正しく説明するというのは,定義の命題のうちに,定義されるものがいかに発生するのかということを,定義される対象に則した形式で含んでいなければならないということを意味します。これを非実在的なものに該当させるのは不可能です。もしくは不可能というより不条理といった方がいいかもしれません。よってこうした公理論者は,非実在的なものを定義することを認めないということになります。
 僕はそれはそれでひとつの考え方なのであって,そういう公理論者がいて,その公理論者が何らかの公理論を叙述したとしても,それが公理論であるということを認めます。現実的なことをいえば,その公理論が学知scientiaであるためには,非実在的なものを含むことができない,他面からいえば実在的なものだけしか対象とすることができない,少なくとも実在するものだけを対象としなければ現実的に意味を有することができない学知というものも存在すると僕は考えるからです。たとえば医学とか生物学といった学問は,おおよそ実在的な対象だけを専門的に扱う学問であるといって,それほど正確性を欠くことはありません。したがって,医学とか生物学を公理論として示す場合は,そこには実在的なものだけが含まれることになるでしょう。逆にいえば,非実在的なものは不要でしょう。ですから,現実的には非実在的なものを含ませることができない公理論というのは存在するのであって,それもまた公理論であることを認める以上は,定義のうちに非実在的なものを含ませることを禁じるような公理論も,一般的に公理論として僕は認めるのです。
                                        
 スピノザの公理論つまり『エチカ』もまた,非実在的なものを含んでいない公理論です。ですが,スピノザは公理論の中に非実在的なものを含むことを一般に禁じることはないと僕は考えます。
コメント
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