スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

印象的な将棋⑰-1&真空の定義

2020-05-30 19:05:52 | ポカと妙手etc
 AbemaTVの将棋チャンネルでは,公式戦が生中継されることがあります。その中には,解説がありのものとなしのものがあって,解説がある場合には一手一手の善し悪しが何となくでも分かる場合が多いのですが,解説がない場合にはそれが僕の力だけでは分からないため,勝ちそうだと思っていた方が急に負けになっていて驚くということが,しばしばではありませんがたまにあります。今回は昨年度の放映の中から,そういう将棋を紹介していきます。これはこういう将棋を紹介することで,僕が解説のない将棋を,どういった観点から観戦しているのかということも分かってもらえるだろうと思うからです。
 取り上げるのは昨年度のA級順位戦二回戦の将棋。後手のダイレクト向飛車でした。
                                        
 記憶が定かではないのですが,僕は観戦を始めたのが第1図あたりからだったと思います。
 この局面は終盤戦に入っています。将棋が終盤になってから観戦し始めた場合は,僕はまずどちらが勝ちそうかということから考えていきます。プロの将棋の場合は一手違いになることが多いので,僕の力ではどちらが勝ちそうなのか分からない場合が圧倒的に多いのですが,この将棋は例外で,先手が勝つのではないかと思いました。理由としては,手番は後手ですが、飛車角しかなく,すぐに先手玉を寄せるのは大変そうであること。それに対して先手は持駒が豊富で,5五の馬が攻守によく効いていることです。どちらが勝ちであるかは分からないことが多いので,僕の力でこのように判断することができる場合は,差がついているということも往々にしてあります。この将棋は,それほど大きな差であったわけではないのですが,ここは先手がよいという判断自体は誤っていませんでした。僕はこの認識をもったまま,観戦を続けていくことになります。

 バディウAlain Badiouは,空を考察の対象としなければならないから公理論が採用されなければならないと主張していました。おそらくその根拠は,公理論において空を定義する必要があったらだと僕は思います。それ以外に,非実在的なものを考察の対象とするために,公理論を採用しなければならないという理由が僕には見当たらないからです。ですからバディウはきっと,考察のために空を定義する必要があると考えていたのでしょう。そして空を定義してしまえさえすれば,空について考察することが可能になると考えていたのだと思います。
 これだけでは,スピノザが示す定義Definitioの要件を,バディウが定義しようとした空が満たすということはできません。空が,あるいはもっと広くいえば,非実在的なものが,知性intellectusがそれを概念するconcipereのに資するような形で定義され得るのかということはまだ判然としていないからです。同時に,公理論における定義の要件について,バディウがスピノザが示したようなものとして解していたかも分からないからです。ただ,スピノザが示すような条件を満たす形で空を定義することは,できないことではないだろうと僕は考えています。
 『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の第二部定義五では,真空が定義されています。それによれば真空とは物体的実体substantia corporeaのない延長Extensioのことです。この定義は,真空を説明するために役立つ定義であるとはいえません。物体的実体のない延長というのは,それ自体で何らかのものの本性essentiaを説明するとはいえないからです。ですが物体的実体とか延長というのが何であるのかということは,定義するかどうかということは別としても,『デカルトの哲学原理』という公理論の中で明らかにすることができる事柄ですから,真空を吟味するためには役立つ定義です。そして真空というのは非実在的なものですから,非実在的なものを,吟味するために役立つように定義するということができるということは,この一例が明示しているといえるでしょう。いい換えれば,たとえそれが非実在的なものであったとしても,公理論を論証していくために,知性は非実在的なものを概念することができるのであり,そのための定義も立てられるのです。
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