スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

天皇賞(春)&究極の一

2020-05-03 19:11:58 | 中央競馬
 第161回天皇賞(春)
 トーセンカンビーナとメイショウテンゲンは発馬のタイミングが合わず1馬身の不利。まず先頭に立ったのはダンビュライトで,2番手のスティッフェリオに対して4馬身くらいのリードをとっていきました。ですが1周目の正面に入って押さえきれなかったキセキが上昇。1コーナーを前にかなり外の方からダンビュライトの前に出て,そこからはキセキの逃げに。3馬身差でダンビュライト,5馬身差でスティッフェリオ,4馬身差でモズベッロで5番手にハッピーグリンという具合に,前は縦長になりました。3馬身差でユーキャンスマイルとシルヴァンシャー。2馬身差でフィエールマン。9番手はエタリオウとミッキースワロー。11番手にミライヘノツバサとメイショウテンゲン。13番手がトーセンカンビーナで最後尾にメロディーレーンという隊列に。最初の1000mは63秒0のスローペース。ただし中盤もラップが落ちませんでした。
 キセキは最後の直線に向いても先頭。ダンビュライトが2番手でその外にスティッフェリオ。ダンビュライトは苦しくなって,スティッフェリオがキセキを差して先頭に。追ってきたのは最内に進路を取ったユーキャンスマイルと外を伸びたミッキースワローとフィエールマン。抜け出したスティッフェリオに追いついたのはフィエールマンで優勝争いはこの2頭。フィニッシュ前は馬の首の上げ下げで抜きつ抜かれつになりましたが,フィニッシュの時点ではフィエールマンが前に出ていて優勝。スティッフェリオがハナ差の2着。外のミッキースワローが2馬身半差の3着で内のユーキャンスマイルはクビ差の4着。
 優勝したフィエールマンは昨年の天皇賞(春)以来の勝利で大レース3勝目。このレースが今年の初戦でしたが,間隔を開けて使いながら成績を残してきた馬でしたから,その点はあまり不安要素ではありませんでした。案じていたのは大外枠を引いていたことで,2着馬とはもう少し能力差がある筈なので,大接戦になった要因はそこだったかもしれません。一時的に縦長の隊列になったことは,大外枠のこの馬にとっては有利に働いたのではないでしょうか。父は第133回を制したディープインパクト。Fierementはイタリア語で燃え上がり。音楽用語です。
                                        
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手はフェブラリーステークス以来の大レース制覇。第158回,159回,160回に続く四連覇で天皇賞4勝目。天皇賞(春)は連覇で2勝目。管理している手塚貴久調教師は昨年の天皇賞(春)以来の大レース7勝目。天皇賞は2勝目で天皇賞(春)は連覇で2勝目。

 実在する実体substantiaは神Deusだけです。そして神以外に何かが存在するとすれば,神の本性essentiaを構成する無限に多くのinfinita属性attributumを除けば,様態modiだけです。様態は実体の変状substantiae affectioです。実在する実体が神だけである以上,実在する様態は神の変状だけであることになります。したがって様態とは,神があるいは神のある属性が様態に変状したものです。あるいは様態とは,様態的変状modificatioに様態化した神あるいは神の属性です。これでみれば神だけが実在するといっているのと大差ない,あるいはもっと極端に,神だけが存在するといっているとも解せるでしょう。このような意味で,スピノザの存在論は一の存在論であることになりますし,ある意味では徹底した一の存在論であるとさえいえるのです。僕は,内在の哲学を究極まで推進すれば,その哲学における存在論は一の存在論にならざるを得ないといいました。スピノザの哲学は究極的な内在の哲学ですから,その存在論が徹底した一の存在論となっていることは,当然といえば当然といえるかもしれません。
 先に進む前に,ここで注意しておいてもらいたいことがあります。僕は一の存在論の代表としてプラトンPlatoを,そして多の存在論の代表としてアリストテレスAristotelēsの名前をあげました。これでみれば分かるように,スピノザの哲学の存在論というのは,プラトン的なものであり,アリストテレス的なものではありません。ですがこれはその哲学の存在論を切り取った場合のことであって,スピノザの哲学がプラトン的な哲学であり,アリストテレス的な哲学ではないということではありません。むしろその哲学の中の存在論の部分だけを抽出して,スピノザの哲学はプラトン的だといったのと同じように,別のある部分だけを抽出すれば,スピノザの哲学はプラトンの哲学と相反するという場合があるでしょうし,逆にアリストテレスの哲学に近いという場合もあるでしょう。
 こうしたことをすべて検証していくことは僕の力では不可能ですし,現在の考察の観点からいえば不要です。一例だけ挙げれば,フロムは社会心理学者ですが,自説を哲学的に裏付けようという意図をもっていました。そこで傍証されるのはスピノザでありアリストテレスです。
コメント
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