スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産大臣賞典かしわ記念&バディウの主張

2020-05-05 18:49:51 | 地方競馬
 第32回かしわ記念
 このメンバー構成であればワイドファラオの逃げは予想されたところ。位置を取りにいったルヴァンスレーヴが2番手。2馬身差でアルクトス。3馬身差でモズアスコット。5番手にケイティブレイブで6番手にサンライズノヴァ。4馬身差の最後尾にナンヨーオボロヅキという隊列。前半の800mは49秒6のスローペース。
 3コーナーを回るとまずアルクトスが動き,2番手のルヴァンスレーヴの外で併走。ここでルヴァンスレーヴはやや苦しくなり,逃げたワイドファラオと2番手の2頭の差がやや開きました。ルヴァンスレーヴの内からはケイティブレイブが進出。直線に入るとルヴァンスレーヴは脱落。残ったケイティブレイブとアルクトスも軽快に逃げたワイドファラオを追い詰めるには至らず,楽に逃げ切ったワイドファラオが優勝。内を突いたケイティブレイブが2馬身差で2着。直線で大外から伸びたサンライズノヴァが1馬身半差の3着に届き,アルクトスは半馬身差で4着。
 優勝したワイドファラオは昨年のユニコーンステークス以来の勝利。重賞は3勝目で大レースは初勝利。このレースは能力ではルヴァンスレーヴ,モズアスコットの順でしたが,ルヴァンスレーヴは1年5ヶ月ぶりの実戦,モズアスコットにはコーナーを4度回るレースとそれぞれに課題があり,その課題を克服することができませんでした。ワイドファラオは展開も味方につけて,それ以外の馬を降したという内容。ですから着順や着差の通りに能力を評価するのは危険ではないかと思います。母の父はアグネスタキオン。母の従兄に2009年にカペラステークス,2010年に北海道スプリントカップを勝ったミリオンディスクで,その半妹に2013年に関東オークスを勝ったアムールポエジー
                                        
 騎乗した福永祐一騎手は皐月賞以来の大レース35勝目。第15回以来17年ぶりのかしわ記念2勝目。管理している角居勝彦調教師は日本ダービー以来の大レース38勝目。かしわ記念は初勝利。

 『主体の論理・概念の倫理』の三者の鼎談の中で,バディウAlain Badiouは数学を集合論だと思っているので,公理論的方法を理解していないという主旨の発言が近藤からありました。このために僕は集合論が公理論と対立的な数学の理論であると判断してしまい,集合論と公理論は相容れないふたつの理論であると思ってしまったのです。ですが実態はそうではなかったようです。このときに近藤がそれを理解することができないと言ったのは,公理論一般ではなく,スピノザのようなあるいは『エチカ』のような公理論のことで,幾何学的方法によって,すべてを演繹的に証明していく方法のことだったようです。
 バディウは,数学は存在論であるというテーゼを立て,より正確にいえば,メイヤスーQuentin Meillassouxはバディウが,数学は存在論であるというテーゼを立てているとみなしたのですが,その存在論は多の存在論です。そしてバディウは,一に依拠しないで純粋な多を思考するためには,存在論は公理化された数学でなければならないとも主張しています。
 この主張もまた,もしそれを哲学的に,あるいは形而上学的に理解しようとすれば,不思議に感じられるかもしれません。すでに説明したように,スピノザの哲学における存在論は,究極の一の存在論といえるべきものであり,それは『エチカ』においては公理系に基づいて論証されているからです、ですがここでバディウがいいたいのはそういうこと,つまり存在論は公理系に基づいて論証されなければならないということではないのです。この文脈の中でバディウの主張を理解するなら,それはおそらく,スピノザは公理系に基づいてすべてを論証しているけれど,それは数学ではないということなのです。そしてバディウは数学は存在論であるといっているのですから,それは存在論ではないということなのです。つまり仮に公理系に基づいてすべてを論証するのであったとしても,スピノザのような方法で行うと,それは数学ではなくしたがって存在論でもなくなるので,もし公理論的に存在論を展開しようとするのであれば,それとは別の方法が必要であるということが,バディウがいいたかったことなのだと解するのが適切です。
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