⑯-7の第2図ですが,飛車を逃げられてしまった以上,先手は6五龍と銀の方を取るほかありません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/44/cf4c6c40792f3b555c40cd7210073a90.png)
第1図となって駒割だけなら先手の銀得です。ですが後手は5七にと金を作っているのが大きく,互角に戦えるのです。というか,ここはすでに後手が優勢です。
後手は☖5六銀と龍取りに打ちつつ攻めに厚みを加えました。先手はとりあえず☗5二銀打と王手をして☖3一玉に☗5四龍と逃げました。後手が☖6六歩と打ったのに対して先手は☗7五角の王手。後手は☖5三歩と中合いをして☗同龍に☖6七歩成と攻め合いにいきました。
これには☗5六龍と銀を取る手が空き王手になるのですが,そこで☖2一玉と逃げるのが決め手でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/d4/04bbf6bf07638d50d105e0499f191ab7.png)
同じようですが第2図で☖2二玉と上がると逆転でした。
第2図以降は☗5四龍と龍を逃げた手に対して☖5二金と質駒の銀を取って後手が勝っています。
綜合と分析という分類でみたときに,バディウAlain Badiouが数学は公理論的でなければならないという場合の公理論が,綜合的方法に分類できるかは僕には分かりません。実際にバディウが想定していた公理論の内容がどのようなものであったかは,『主体の論理・概念の倫理』でも『〈内在の哲学〉へ』でも説明されていないからです。ただ,数学が公理論でなければならないという点ではバディウはスピノザと一致をみているのであって,かつスピノザは明らかにそれは綜合的方法ではない,というか分析的方法であるホッブズThomas HobbesやライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの数学も数学であると認めるでしょうから,バディウの数学を数学と認めないということはあり得ないように思えます。バディウの数学は,公理論の中でも公理論的集合論です。つまりスピノザは公理論的集合論を数学であると認めるでしょう。これは,スピノザは集合論を数学として認めるであろうといっているのと同じです。
つまり,数学を存在論から分離し,単に数学として解する限り,スピノザが集合論を数学として認めないという可能性はないといっていいと僕は考えます。ですから実際に問題となってくるのは,何が数学であるかということより,何が学知scientiaであるのかということになるでしょう。いい換えれば,スピノザがその存在existentiaを認めない空を規定する数学である集合論について,スピノザはそれを学知である,あるいは真の認識cognitioであるということを認めるのかということが,もっといえばそのことだけが,問題として存在すると僕は考えます。バディウ自身は数学は存在論であるといっていて,僕はその立場には立ちませんし,スピノザもそういう立場は採用しないと思われますが,存在論的な観点が集合論が学知であるか否かということには大きく関係してくるのです。
まず最初に,空のような非実在的なものを,存在論の中に組み込むというのが,数学的な観点としてではなく,哲学的な,あるいは形而上学的な観点からはどのようなことを具体的に意味するのかということを考えておきましょう。バディウが数学的な点から空を含む集合論が数学であるというときには,空は数学的な概念だといわなければならないからです。
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第1図となって駒割だけなら先手の銀得です。ですが後手は5七にと金を作っているのが大きく,互角に戦えるのです。というか,ここはすでに後手が優勢です。
後手は☖5六銀と龍取りに打ちつつ攻めに厚みを加えました。先手はとりあえず☗5二銀打と王手をして☖3一玉に☗5四龍と逃げました。後手が☖6六歩と打ったのに対して先手は☗7五角の王手。後手は☖5三歩と中合いをして☗同龍に☖6七歩成と攻め合いにいきました。
これには☗5六龍と銀を取る手が空き王手になるのですが,そこで☖2一玉と逃げるのが決め手でした。
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同じようですが第2図で☖2二玉と上がると逆転でした。
第2図以降は☗5四龍と龍を逃げた手に対して☖5二金と質駒の銀を取って後手が勝っています。
綜合と分析という分類でみたときに,バディウAlain Badiouが数学は公理論的でなければならないという場合の公理論が,綜合的方法に分類できるかは僕には分かりません。実際にバディウが想定していた公理論の内容がどのようなものであったかは,『主体の論理・概念の倫理』でも『〈内在の哲学〉へ』でも説明されていないからです。ただ,数学が公理論でなければならないという点ではバディウはスピノザと一致をみているのであって,かつスピノザは明らかにそれは綜合的方法ではない,というか分析的方法であるホッブズThomas HobbesやライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの数学も数学であると認めるでしょうから,バディウの数学を数学と認めないということはあり得ないように思えます。バディウの数学は,公理論の中でも公理論的集合論です。つまりスピノザは公理論的集合論を数学であると認めるでしょう。これは,スピノザは集合論を数学として認めるであろうといっているのと同じです。
つまり,数学を存在論から分離し,単に数学として解する限り,スピノザが集合論を数学として認めないという可能性はないといっていいと僕は考えます。ですから実際に問題となってくるのは,何が数学であるかということより,何が学知scientiaであるのかということになるでしょう。いい換えれば,スピノザがその存在existentiaを認めない空を規定する数学である集合論について,スピノザはそれを学知である,あるいは真の認識cognitioであるということを認めるのかということが,もっといえばそのことだけが,問題として存在すると僕は考えます。バディウ自身は数学は存在論であるといっていて,僕はその立場には立ちませんし,スピノザもそういう立場は採用しないと思われますが,存在論的な観点が集合論が学知であるか否かということには大きく関係してくるのです。
まず最初に,空のような非実在的なものを,存在論の中に組み込むというのが,数学的な観点としてではなく,哲学的な,あるいは形而上学的な観点からはどのようなことを具体的に意味するのかということを考えておきましょう。バディウが数学的な点から空を含む集合論が数学であるというときには,空は数学的な概念だといわなければならないからです。