戸口の雑感⑬の最後のところで示した馬場流のやり方というのは,ジャンボ・鶴田と戸口の関係についても妥当していたようです。鶴田は全日本プロレスに入団してデビューした選手で,戸口は大木金太郎に請われる形で全日本プロレスで仕事をするようになったので,全日本プロレス内における出自は異なります。ただ,戸口は馬場は自分のことを外様扱いはしなかったと語っています。少なくとも戸口が日本陣営で試合をするようになってからは,馬場の鶴田と戸口に対する扱いは,不平等なものではなかった,戸口はそのように感じていたということでしょう。馬場,鶴田,戸口という序列だったけれども,将棋でいえば馬場が玉なら鶴田と戸口は飛車と角で,それほど差がない形だったと戸口は語っています。
ただし,鶴田と戸口のタッグで暮れの世界最強タッグ決定リーグ戦に出場することはありませんでした。馬場のパートナーは鶴田で,戸口は適したパートナーがいなかったので,入団後は世界最強タッグ決定リーグ戦には出場していません。同様にインタータッグの王者も馬場と鶴田のままで,戸口が鶴田と組んで王者になることはありませんでした。これについて戸口は,馬場は別のパートナーでもよかったと思うけれども,一歩引こうとしなかったとしています。この部分には戸口の馬場に対する不満が含まれているといえるでしょう。馬場が鶴田をパートナーとするのをやめたのはもっと後,テリー・ファンクの引退に伴ってドリー・ファンク・ジュニアと組むことにして,鶴田の正式なパートナーが天龍源一郎になったときです。たぶん馬場はこのときと同じような仕方でパートナーをチェンジすることが不可能だったとは思いません。馬場が何を考えていたのかまでは分かりませんが,馬場の気持ちが,戸口および天龍というふたりのレスラーの人生にいくらかの影響を与えた可能性はありそうです。
もしもこのとき,鶴田が馬場に,自分は戸口を正式なパートナーにした方がいいのではないかと進言していたら,あるいは変化が起こったのかもしれません。ただ,鶴田はそうしたことをする選手ではなかったし,また,それができないのも仕方がない面もあったと戸口はみています。
一般的には神Deusは最高に完全summe perfectumでなければならないと解されています。これは神を宗教的なものと解しても,そうではなく哲学的なものと解したとしても同じです。もしそれより完全性perfectioにおいて優る何者かがあるとすれば,そうしたものについてそれを神というには相応しくありません。他面からいえば,人びとは最高に完全な存在者についてそれを神といってきたのであり,また神と解してきたのです。これは歴史的なものであって,覆すことができない厳然たる事実であるといってよいでしょう。したがって,たとえばデカルトRené Descartesの哲学でも,神の定義Definitioは,基本的に最高の存在者ということになっています。
スピノザは最高に完全ということを神の定義とすることを拒否しました。ただし,それは神が最高に完全であるということを否定したという意味ではありません。スピノザの哲学は原則的に唯名論で成り立っていますので,そうしたものを神といわなければならない理由はないのですが,一般的に神は最高に完全であるといわれ,またそのように解されているのであれば,神についてそれを否定するnegareところから哲学を始めるならば,國分が指摘しているような,そうした一般的な解釈を逆手に取るということもできなくなります。したがって,スピノザの哲学でも神は最高に完全な存在者ですし,最高に完全な存在者のことを神ということはスピノザの哲学の中でも成立しています。スピノザがいっているのは,ただそれは神の定義ではないということです。

スピノザの哲学における定義は,定義されるものの本性essentiaを示し,かつ定義されたものの発生を示すということが求められています。これはすべての場合に成立するというわけではないのですが,ここでは定義論の考察を繰り返すことはしません。それはそれで別に考察しましたので,この点についての詳しいことは該当部分を参照してください。スピノザがいわんとしているのは,最高に完全であるということは,神の本性には属さないということです。一方でスピノザが神が最高に完全であるということを肯定するaffirmareというのは,神の特質proprietasとしてそれを肯定するということです。この特質は神の本性から必然的にnecessario流出します。
ただし,鶴田と戸口のタッグで暮れの世界最強タッグ決定リーグ戦に出場することはありませんでした。馬場のパートナーは鶴田で,戸口は適したパートナーがいなかったので,入団後は世界最強タッグ決定リーグ戦には出場していません。同様にインタータッグの王者も馬場と鶴田のままで,戸口が鶴田と組んで王者になることはありませんでした。これについて戸口は,馬場は別のパートナーでもよかったと思うけれども,一歩引こうとしなかったとしています。この部分には戸口の馬場に対する不満が含まれているといえるでしょう。馬場が鶴田をパートナーとするのをやめたのはもっと後,テリー・ファンクの引退に伴ってドリー・ファンク・ジュニアと組むことにして,鶴田の正式なパートナーが天龍源一郎になったときです。たぶん馬場はこのときと同じような仕方でパートナーをチェンジすることが不可能だったとは思いません。馬場が何を考えていたのかまでは分かりませんが,馬場の気持ちが,戸口および天龍というふたりのレスラーの人生にいくらかの影響を与えた可能性はありそうです。
もしもこのとき,鶴田が馬場に,自分は戸口を正式なパートナーにした方がいいのではないかと進言していたら,あるいは変化が起こったのかもしれません。ただ,鶴田はそうしたことをする選手ではなかったし,また,それができないのも仕方がない面もあったと戸口はみています。
一般的には神Deusは最高に完全summe perfectumでなければならないと解されています。これは神を宗教的なものと解しても,そうではなく哲学的なものと解したとしても同じです。もしそれより完全性perfectioにおいて優る何者かがあるとすれば,そうしたものについてそれを神というには相応しくありません。他面からいえば,人びとは最高に完全な存在者についてそれを神といってきたのであり,また神と解してきたのです。これは歴史的なものであって,覆すことができない厳然たる事実であるといってよいでしょう。したがって,たとえばデカルトRené Descartesの哲学でも,神の定義Definitioは,基本的に最高の存在者ということになっています。
スピノザは最高に完全ということを神の定義とすることを拒否しました。ただし,それは神が最高に完全であるということを否定したという意味ではありません。スピノザの哲学は原則的に唯名論で成り立っていますので,そうしたものを神といわなければならない理由はないのですが,一般的に神は最高に完全であるといわれ,またそのように解されているのであれば,神についてそれを否定するnegareところから哲学を始めるならば,國分が指摘しているような,そうした一般的な解釈を逆手に取るということもできなくなります。したがって,スピノザの哲学でも神は最高に完全な存在者ですし,最高に完全な存在者のことを神ということはスピノザの哲学の中でも成立しています。スピノザがいっているのは,ただそれは神の定義ではないということです。

スピノザの哲学における定義は,定義されるものの本性essentiaを示し,かつ定義されたものの発生を示すということが求められています。これはすべての場合に成立するというわけではないのですが,ここでは定義論の考察を繰り返すことはしません。それはそれで別に考察しましたので,この点についての詳しいことは該当部分を参照してください。スピノザがいわんとしているのは,最高に完全であるということは,神の本性には属さないということです。一方でスピノザが神が最高に完全であるということを肯定するaffirmareというのは,神の特質proprietasとしてそれを肯定するということです。この特質は神の本性から必然的にnecessario流出します。