18日に北國新聞会館で指された第48期棋王戦五番勝負第二局。
渡辺明棋王の先手で角換わり相腰掛銀。先手が右の金の位置の工夫をした上で仕掛けたのですが,すぐに長考に入りました。後手の藤井聡太竜王の対応が,本命とみていたものと違っていたというのが最もありそうな理由です。とはいえ仮にそうであったとしても,いくらかの準備はあった筈だと思います。
この将棋は互角の形勢が長々と続いていたのですが,両対局者の判断は,一時的に後手がよくなったものの,その後に後手が間違えたために,先手が指しやすくなったということで一致していました。トップ棋士の判断ですから,人間的にはそういう将棋であったと解釈してよいものと思います。先手はよくなったと思ったところで攻め急いでしまったと反省していましたが,そこまで悪くなったというわけでもなかったように思います。
第1図で☗1一飛と打ちましたが,☖2四角打と受けられ,この2枚の角が最終的に先手玉を仕留めることになりました。たぶんここが最後の分岐で,先手は第1図では☗4一飛と打った方がよかったということになりそうです。
藤井竜王が連勝。第三局は来月5日に指される予定です。
神Deusは善意によってあらゆることをなすとか,神の本性essentiaに自由意志voluntas liberaが属するといったことは,哲学に詳しくない人でも,有していることがあり得る見解opinioではないかと僕は想定します。そうしたことは神が最高に完全summe perfectumであるということから帰結されているといえますから,それが真verumであったら神は最高に完全ではあり得ないという結論は,まさに神が最高に完全であるということを逆手に取ったものだといえるでしょう。よって『はじめてのスピノザ』の読者にとっても,それは逆手に取られたと感じる場合があり得ると僕は思います。
この点に関連する考察はこれだけなのですが,この考察に関連して僕の方からいっておきたいことがあります。スピノザは神が最高に完全であるために,神はなし得る事柄のすべてをなすべきであって,なし得ることのすべてをなさないようなものは最高に完全ではない,いい換えれば不完全であると主張しています。したがってスピノザが定義する神は,なし得ることのすべてをなす神になるのですが,このことは,神はどんなことでもなすことができるということを意味するのではありません。少なくともことばの上では,このふたつのことの間には差異があるのであって,その差異に注目するなら,スピノザがいっている神にはなし得ないことというのがあると解さなければなりません。たとえば虚偽falsitasを真理veritasにすることとか,無を有esseにするということは,神にはなし得ないのです。いい換えればこれらのことは神のなし得ることのうちに入っていません。
スピノザの哲学で厳密に考えると,実は虚偽を真理にすることと,無を有にすることというのは同じことを意味します。なぜなら,スピノザの哲学における真理というのは十全な観念idea adaequataあるいは真の観念idea veraの総体を意味し,虚偽というのは混乱した観念idea inadaequataあるいは誤った観念idea falsaの総体を意味します。このとき,十全な観念と混乱した観念の関係,同じことですが真の観念と誤った観念の関係というのは,単に真理と虚偽の関係だけを意味するというわけではなく,それと同時に有と無の関係をも意味するということにスピノザの哲学ではなっているからです。つまりそのひとつのことを神はなし得ません。
渡辺明棋王の先手で角換わり相腰掛銀。先手が右の金の位置の工夫をした上で仕掛けたのですが,すぐに長考に入りました。後手の藤井聡太竜王の対応が,本命とみていたものと違っていたというのが最もありそうな理由です。とはいえ仮にそうであったとしても,いくらかの準備はあった筈だと思います。
この将棋は互角の形勢が長々と続いていたのですが,両対局者の判断は,一時的に後手がよくなったものの,その後に後手が間違えたために,先手が指しやすくなったということで一致していました。トップ棋士の判断ですから,人間的にはそういう将棋であったと解釈してよいものと思います。先手はよくなったと思ったところで攻め急いでしまったと反省していましたが,そこまで悪くなったというわけでもなかったように思います。
第1図で☗1一飛と打ちましたが,☖2四角打と受けられ,この2枚の角が最終的に先手玉を仕留めることになりました。たぶんここが最後の分岐で,先手は第1図では☗4一飛と打った方がよかったということになりそうです。
藤井竜王が連勝。第三局は来月5日に指される予定です。
神Deusは善意によってあらゆることをなすとか,神の本性essentiaに自由意志voluntas liberaが属するといったことは,哲学に詳しくない人でも,有していることがあり得る見解opinioではないかと僕は想定します。そうしたことは神が最高に完全summe perfectumであるということから帰結されているといえますから,それが真verumであったら神は最高に完全ではあり得ないという結論は,まさに神が最高に完全であるということを逆手に取ったものだといえるでしょう。よって『はじめてのスピノザ』の読者にとっても,それは逆手に取られたと感じる場合があり得ると僕は思います。
この点に関連する考察はこれだけなのですが,この考察に関連して僕の方からいっておきたいことがあります。スピノザは神が最高に完全であるために,神はなし得る事柄のすべてをなすべきであって,なし得ることのすべてをなさないようなものは最高に完全ではない,いい換えれば不完全であると主張しています。したがってスピノザが定義する神は,なし得ることのすべてをなす神になるのですが,このことは,神はどんなことでもなすことができるということを意味するのではありません。少なくともことばの上では,このふたつのことの間には差異があるのであって,その差異に注目するなら,スピノザがいっている神にはなし得ないことというのがあると解さなければなりません。たとえば虚偽falsitasを真理veritasにすることとか,無を有esseにするということは,神にはなし得ないのです。いい換えればこれらのことは神のなし得ることのうちに入っていません。
スピノザの哲学で厳密に考えると,実は虚偽を真理にすることと,無を有にすることというのは同じことを意味します。なぜなら,スピノザの哲学における真理というのは十全な観念idea adaequataあるいは真の観念idea veraの総体を意味し,虚偽というのは混乱した観念idea inadaequataあるいは誤った観念idea falsaの総体を意味します。このとき,十全な観念と混乱した観念の関係,同じことですが真の観念と誤った観念の関係というのは,単に真理と虚偽の関係だけを意味するというわけではなく,それと同時に有と無の関係をも意味するということにスピノザの哲学ではなっているからです。つまりそのひとつのことを神はなし得ません。