高知競輪場で行われた昨日の第38回全日本選抜競輪の決勝。並びは新田‐守沢‐成田の北日本,吉沢に香川,脇本‐古性‐三谷の近畿で浅井は単騎。
新田がスタートを取って前受け。4番手に浅井,5番手に吉沢,7番手に脇本で周回。残り2周のバックで浅井と吉沢,香川と脇本の車間がそれぞれ開いて打鐘。コーナーに差し掛かったところから脇本が発進。ホームで新田を叩くと,新田は古性のインで粘りました。しかしこの競りは古性が守り,バックに入って新田は内を後退。外から浅井が捲りその後ろに吉沢が続きましたが,これは前まで届かずに不発の形。直線は車間を少し開けていた脇本の番手から古性が踏み込んで優勝。新田の後ろからうまくすり抜け,古性と三谷の間を割った守沢が1車輪差で2着。古性マークの三谷が4分の1車輪差で3着。
優勝した大阪の古性優作選手は昨年6月の高松宮記念杯以来の優勝。ビッグ5勝目でGⅠは4勝目。全日本選抜競輪は昨年からの連覇で2勝目。このレースは新田がいつものように前受け。それに対して脇本が残り1周半の段階から捲っていったので,脚を残すだけの余裕がありませんでした。古性も新田に競られましたので楽ではなかったのですが,わりとあっさり決着をつけることができたので,脚力をひどく消耗するまでには至りませんでした。記念競輪よりもビッグで結果を残しがちなのは,脇本の番手を周ることが多いからで,ビッグになると脇本も記念競輪レベルよりも脚を使わなければならないために,差しやすくなるということでしょう。
円の十全な観念idea adaequataが持続duratioのうちに存在するのでないなら,それは永遠aeternumから永遠にわたって存在することになります。第二部定理八系のいい方に倣えば,それは神Deusの無限な観念が存在する限りにおいて存在する観念です。つまり現実的に存在する人間は,円を十全に認識するcognoscere限りでは,神の無限な観念が存在する限りにおいて存在する円の観念を認識しているといわなければなりません。そしてもちろん,円の観念というのは一例にすぎないので,どんな観念対象ideatumであれ,それを十全に認識するのであれば,その観念対象についての永遠のaeternus真理veritasを認識していることになります。これは神の無限な観念が永遠から永遠にわたって存在する思惟の様態cogitandi modiであるからで,このゆえに真理が思惟の様態であったとしても,持続のうちに存在する人間の精神mens humanaが,永遠の真理を認識するということが可能になっているのです。

これが基本的なスピノザの哲学における真理の認識の原理です。このために,真理が虚偽falsitasになるということはありません。よって,虚偽が真理になるということもあり得ないのです。また,十全な観念と混乱した観念idea inadaequataの関係は,有esseと無の関係をも意味するのですから,有であるものが無になるということもないし,無であるものが有になるということもないのです。よって,スピノザの哲学における神は,真理を虚偽にすること,また虚偽を真理にするということは不可能だし,同じことですが有を無にすることと無を有にすることは不可能です。
そこで,そうしたことを自由意志voluntas liberaによってなし得る神が存在するとしましょう。一見するとそういう神は,確かにスピノザがいう神にはなし得ないことをなし得ることになりますから,スピノザが示している神よりも完全であるようにみえるかもしれません。ところが,スピノザの哲学における真理の原理からすると,神がそれをなし得ると主張するならば,真理は永遠であることはできないことになります。真理を虚偽にすることができるのなら,今日は真理であったことが明日には虚偽になるということも想定しなければなりませんし,逆に今日は虚偽であったことが明日には真理とされるということも想定しなければなりません。
新田がスタートを取って前受け。4番手に浅井,5番手に吉沢,7番手に脇本で周回。残り2周のバックで浅井と吉沢,香川と脇本の車間がそれぞれ開いて打鐘。コーナーに差し掛かったところから脇本が発進。ホームで新田を叩くと,新田は古性のインで粘りました。しかしこの競りは古性が守り,バックに入って新田は内を後退。外から浅井が捲りその後ろに吉沢が続きましたが,これは前まで届かずに不発の形。直線は車間を少し開けていた脇本の番手から古性が踏み込んで優勝。新田の後ろからうまくすり抜け,古性と三谷の間を割った守沢が1車輪差で2着。古性マークの三谷が4分の1車輪差で3着。
優勝した大阪の古性優作選手は昨年6月の高松宮記念杯以来の優勝。ビッグ5勝目でGⅠは4勝目。全日本選抜競輪は昨年からの連覇で2勝目。このレースは新田がいつものように前受け。それに対して脇本が残り1周半の段階から捲っていったので,脚を残すだけの余裕がありませんでした。古性も新田に競られましたので楽ではなかったのですが,わりとあっさり決着をつけることができたので,脚力をひどく消耗するまでには至りませんでした。記念競輪よりもビッグで結果を残しがちなのは,脇本の番手を周ることが多いからで,ビッグになると脇本も記念競輪レベルよりも脚を使わなければならないために,差しやすくなるということでしょう。
円の十全な観念idea adaequataが持続duratioのうちに存在するのでないなら,それは永遠aeternumから永遠にわたって存在することになります。第二部定理八系のいい方に倣えば,それは神Deusの無限な観念が存在する限りにおいて存在する観念です。つまり現実的に存在する人間は,円を十全に認識するcognoscere限りでは,神の無限な観念が存在する限りにおいて存在する円の観念を認識しているといわなければなりません。そしてもちろん,円の観念というのは一例にすぎないので,どんな観念対象ideatumであれ,それを十全に認識するのであれば,その観念対象についての永遠のaeternus真理veritasを認識していることになります。これは神の無限な観念が永遠から永遠にわたって存在する思惟の様態cogitandi modiであるからで,このゆえに真理が思惟の様態であったとしても,持続のうちに存在する人間の精神mens humanaが,永遠の真理を認識するということが可能になっているのです。

これが基本的なスピノザの哲学における真理の認識の原理です。このために,真理が虚偽falsitasになるということはありません。よって,虚偽が真理になるということもあり得ないのです。また,十全な観念と混乱した観念idea inadaequataの関係は,有esseと無の関係をも意味するのですから,有であるものが無になるということもないし,無であるものが有になるということもないのです。よって,スピノザの哲学における神は,真理を虚偽にすること,また虚偽を真理にするということは不可能だし,同じことですが有を無にすることと無を有にすることは不可能です。
そこで,そうしたことを自由意志voluntas liberaによってなし得る神が存在するとしましょう。一見するとそういう神は,確かにスピノザがいう神にはなし得ないことをなし得ることになりますから,スピノザが示している神よりも完全であるようにみえるかもしれません。ところが,スピノザの哲学における真理の原理からすると,神がそれをなし得ると主張するならば,真理は永遠であることはできないことになります。真理を虚偽にすることができるのなら,今日は真理であったことが明日には虚偽になるということも想定しなければなりませんし,逆に今日は虚偽であったことが明日には真理とされるということも想定しなければなりません。