⑱-4で示したふたつの疑問のうち,その第1図ですぐに☗2七銀と打ってはいけない理由は⑱-5で説明しました。そこでもうひとつの疑問の,なぜ玉のそばに銀を打つのではなく,離れた位置に☗2七銀と打たなければならない理由を説明していきます。
⑱-4の第1図から☗2一飛☖3一歩に,たとえば☖3八金を防ぐために☗4九銀と打ったとすると第1図になります。

この図で先手がなぜまずいのかということは,すぐに☗2七銀と打ってはいけない理由から何となく想像できるのではないでしょうか。第1図では後手から☖3六金ないしは☖2七金と打つ手があって,これは⑱-5の第1図より難しいところがあるものの,詰めろを続けて先手が勝つということが難しいのです。つまり銀を2七に打たなければいけないのは,☖3六金や☖2七金を防がなければならないからなのです。
もちろん⑱-4の第1図から☗2一飛☖3一歩に☗2七銀と正しい手順で受ければ,先手は勝ちとはいえないものの優位を維持することはできます。ただこの手順がきわめて難しかったがために,ここで妙手が発生することになったといえるのではないでしょうか。
國分が指摘しているように,確かにスピノザは,最高に完全summe perfectumという神Deusの評価を逆手にとって,神は超越的ではなく内在的であるということを帰結させたのです。ただ,このことが『はじめてのスピノザ』の読者,現代の日本人のスピノザの入門者にとって,どれほどの意味があるのかということは疑問が残ります。というのは,このことはたとえばヤコービFriedrich Heinrich Jaobiのように,キリスト教に深い信仰fidesを有している人間にとって大いに意義があることであって,逆手に取られたというように感じることでしょうが,僕が想定している『はじめてのスピノザ』の読者は,そのような信仰は有していない人が大多数であろうと思うからです。
神が最高に完全であることは,おそらく僕が規定している読者もイメージとしては有していると思います。そしてそのような人の大部分は,おそらく意識はしていないだろうけれど,超越的なものとして神をイメージしているだろうと僕は推測します。しかしそうした人びとが,そのことを意識しているかどうかといえばたぶん意識はしていないのであって,神が超越的なものであるか内在的なものであるのかということについて,はっきりとした見解opinioを有していない,正確にいれば自分がそのことについて見解を有してることをよく知らないという場合がほとんどでしょう。
スピノザが神を絶対に無限absolute infinitumと定義することによって,そうしたイメージを覆すということ自体は有意義です。神は最高に完全であるというイメージはもっていたけれども,スピノザが示している神は自分がもっていたイメージとは違うものだということ知ることによって,自身がイメージしていた神がどのようなものであったのかということを知ることができるからです。しかしだからといって,ヤコービがそう感じたようには,それで自分のイメージを逆手に取られたというようには感じないでしょう。ただ単に違っていたというように感じるだけです。
僕は最高に完全であるという神に対する評価を逆手に取ったということは,『はじめてのスピノザ』の読者にも成立すると思います。これは國分が指摘している,スピノザの神は自然科学的なものであるということと関連します。
⑱-4の第1図から☗2一飛☖3一歩に,たとえば☖3八金を防ぐために☗4九銀と打ったとすると第1図になります。

この図で先手がなぜまずいのかということは,すぐに☗2七銀と打ってはいけない理由から何となく想像できるのではないでしょうか。第1図では後手から☖3六金ないしは☖2七金と打つ手があって,これは⑱-5の第1図より難しいところがあるものの,詰めろを続けて先手が勝つということが難しいのです。つまり銀を2七に打たなければいけないのは,☖3六金や☖2七金を防がなければならないからなのです。
もちろん⑱-4の第1図から☗2一飛☖3一歩に☗2七銀と正しい手順で受ければ,先手は勝ちとはいえないものの優位を維持することはできます。ただこの手順がきわめて難しかったがために,ここで妙手が発生することになったといえるのではないでしょうか。
國分が指摘しているように,確かにスピノザは,最高に完全summe perfectumという神Deusの評価を逆手にとって,神は超越的ではなく内在的であるということを帰結させたのです。ただ,このことが『はじめてのスピノザ』の読者,現代の日本人のスピノザの入門者にとって,どれほどの意味があるのかということは疑問が残ります。というのは,このことはたとえばヤコービFriedrich Heinrich Jaobiのように,キリスト教に深い信仰fidesを有している人間にとって大いに意義があることであって,逆手に取られたというように感じることでしょうが,僕が想定している『はじめてのスピノザ』の読者は,そのような信仰は有していない人が大多数であろうと思うからです。
神が最高に完全であることは,おそらく僕が規定している読者もイメージとしては有していると思います。そしてそのような人の大部分は,おそらく意識はしていないだろうけれど,超越的なものとして神をイメージしているだろうと僕は推測します。しかしそうした人びとが,そのことを意識しているかどうかといえばたぶん意識はしていないのであって,神が超越的なものであるか内在的なものであるのかということについて,はっきりとした見解opinioを有していない,正確にいれば自分がそのことについて見解を有してることをよく知らないという場合がほとんどでしょう。
スピノザが神を絶対に無限absolute infinitumと定義することによって,そうしたイメージを覆すということ自体は有意義です。神は最高に完全であるというイメージはもっていたけれども,スピノザが示している神は自分がもっていたイメージとは違うものだということ知ることによって,自身がイメージしていた神がどのようなものであったのかということを知ることができるからです。しかしだからといって,ヤコービがそう感じたようには,それで自分のイメージを逆手に取られたというようには感じないでしょう。ただ単に違っていたというように感じるだけです。
僕は最高に完全であるという神に対する評価を逆手に取ったということは,『はじめてのスピノザ』の読者にも成立すると思います。これは國分が指摘している,スピノザの神は自然科学的なものであるということと関連します。