25日と26日に大田市で指された第72期王将戦七番勝負第五局。
藤井聡太王将の先手で羽生善治九段の横歩取り。序盤早々から激しい戦いに突入したので短手数での決着もあり得る展開でしたが,それなりの手数になりました。なのでその間にはいくつかの分岐点があったことになります。
25日の午後,先手は長考の末に桂馬を跳ねていきました。これに対して桂馬が跳ねて空いた地点に歩を打って直線的な攻め合いにいけば後手有望とAIは指摘。ただ後手は歩を成り捨てて銀と桂馬の両取りに飛車を打つ手順に進めました。先手が長考の末に桂馬を跳ねたのは,直線的な攻め合いは大丈夫との判断があったからであり,後手も長考してその手順を断念していますので,それは無理と判断したものです。つまり攻め合いでは後手が無理ということで両者の判断が一致したのですから,これを逸機とみるのはできないと僕は考えます。
後手の両取りに対して玉頭に桂馬を成り捨てたのが先手の素晴らしい判断で,ここで先手が優位に立ちました。ただし26日に入り,飛車を8筋に成り込む代償に遊んでいた後手の桂馬を働かせる手順となり,後手が挽回。とはいえそれは互角に近くなったというだけなので,これも先手にとってミスといえるほどのミスではなかったと僕には思えます。
ここから激しく攻め込んでいった先手が,いくつかの攻め筋があるところで桂馬に当てて銀を打ちました。これを契機に後手が優勢に。ただ,この将棋は後手が角を打って王手龍取りとか詰めろ龍取りを掛ける変化があり,ここに銀を打っておけば単に攻めるだけでなく,龍にヒモがつくので,仮にそういう順に進んでもタダで龍を取られることはなくなる手です。先の見通しが立っていない限りそのような策を講じるのは普通なので,これもミスらしいミスとは僕には思えません。むしろその直前に金を打って受けた後手の粘りが好手だったということだと思います。
逆転した後手は,先手の玉頭に銀を打って詰めろ龍取りの順に進めるか,単に受けに回るかの選択の局面まで進んだところで受けを選択。ただこの受けた手が実は受けになっていなかったので,すぐに先手の勝ちで終わりました。詰めろ龍取りの手順は先手玉が上部に脱出することになり,勝ち負けの見通しが立たなかったために受けに回ったのですが,それが受けになっていなかったということは,その後の先手の攻め筋を見落としていたからだと推測されます。受けが難しいということが分かっていれば,見通しが立っていない方に進めるのが普通でしょうから,ここで受けに回ったのは敗着だったと僕は思いますし,少なくともそうであった可能性が高いだろうと考えます。

藤井王将が勝って3勝2敗。第六局は来月11日と12日に指される予定です。
平面上に作図された三角形の内角の和は二直角です。このことはスピノザの哲学では永遠のaeternus真理veritasであるとされます。これは三角形の本性essentiaではなく,三角形の特質proprietasですので,思惟の様態cogitandi modiとしてみるなら,三角形が十全に認識されたときに含まれる意志作用volitioです。つまり三角形に対してその内角の和が二直角であることを肯定するaffirmare意志作用であることになります。ただしスピノザの哲学では,第二部定理四九により,意志作用は観念ideaに含まれているものであり,かつ観念には意志作用が必ず含まれているのですから,この意志作用が含まれている知性intellectusのうちには三角形の十全な観念idea adaequataがあります。ある図形について内角の和が二直角であることを肯定する意志作用は,平面上に描かれた三角形だけを肯定する意志作用であり,ほかのものを肯定する意志作用ではあり得ないからです。
このことが,スピノザの哲学では永遠の真理とされるわけです。しかしもし神Deusが自由意志voluntas liberaによって,平面上の三角形の内角の和が二直角ではないようにすることができる,たとえば三直角にすることができるのであれば,少なくともこの意志作用が平面上の三角形を永遠に肯定する意志作用であることはできなくなります。つまりそれは,その知性がそのことを肯定する意志作用を含むことによって有しているとされる三角形の観念が,永遠に十全な観念であることはできないということです。
僕は単にこのことだけで,神の本性に自由意志が含まれていては,その神を最高に完全summe perfectumであるとみなすことはできないと考えます。この意志作用と観念の関係はあらゆる個々の観念と個々の意志作用に妥当するのであり,そのためにスピノザの哲学では第二部定理四九系にあるように,個々の観念の総体である知性と個々の意志作用の総体である意志voluntasが同一であるとされるのです。よって神が自由意志によって真理を虚偽falsitasにしたり有esseを無にしたりできるなら,あるいは逆に虚偽を真理にまた無を有にすることができるのであれば,永遠の真理といわれる事柄は何もないことになります。つまりこの神は真理を創造したり産出したりすることはできません。対してスピノザの神は,真理だけ創造あるいは産出するのです。
藤井聡太王将の先手で羽生善治九段の横歩取り。序盤早々から激しい戦いに突入したので短手数での決着もあり得る展開でしたが,それなりの手数になりました。なのでその間にはいくつかの分岐点があったことになります。
25日の午後,先手は長考の末に桂馬を跳ねていきました。これに対して桂馬が跳ねて空いた地点に歩を打って直線的な攻め合いにいけば後手有望とAIは指摘。ただ後手は歩を成り捨てて銀と桂馬の両取りに飛車を打つ手順に進めました。先手が長考の末に桂馬を跳ねたのは,直線的な攻め合いは大丈夫との判断があったからであり,後手も長考してその手順を断念していますので,それは無理と判断したものです。つまり攻め合いでは後手が無理ということで両者の判断が一致したのですから,これを逸機とみるのはできないと僕は考えます。
後手の両取りに対して玉頭に桂馬を成り捨てたのが先手の素晴らしい判断で,ここで先手が優位に立ちました。ただし26日に入り,飛車を8筋に成り込む代償に遊んでいた後手の桂馬を働かせる手順となり,後手が挽回。とはいえそれは互角に近くなったというだけなので,これも先手にとってミスといえるほどのミスではなかったと僕には思えます。
ここから激しく攻め込んでいった先手が,いくつかの攻め筋があるところで桂馬に当てて銀を打ちました。これを契機に後手が優勢に。ただ,この将棋は後手が角を打って王手龍取りとか詰めろ龍取りを掛ける変化があり,ここに銀を打っておけば単に攻めるだけでなく,龍にヒモがつくので,仮にそういう順に進んでもタダで龍を取られることはなくなる手です。先の見通しが立っていない限りそのような策を講じるのは普通なので,これもミスらしいミスとは僕には思えません。むしろその直前に金を打って受けた後手の粘りが好手だったということだと思います。
逆転した後手は,先手の玉頭に銀を打って詰めろ龍取りの順に進めるか,単に受けに回るかの選択の局面まで進んだところで受けを選択。ただこの受けた手が実は受けになっていなかったので,すぐに先手の勝ちで終わりました。詰めろ龍取りの手順は先手玉が上部に脱出することになり,勝ち負けの見通しが立たなかったために受けに回ったのですが,それが受けになっていなかったということは,その後の先手の攻め筋を見落としていたからだと推測されます。受けが難しいということが分かっていれば,見通しが立っていない方に進めるのが普通でしょうから,ここで受けに回ったのは敗着だったと僕は思いますし,少なくともそうであった可能性が高いだろうと考えます。

藤井王将が勝って3勝2敗。第六局は来月11日と12日に指される予定です。
平面上に作図された三角形の内角の和は二直角です。このことはスピノザの哲学では永遠のaeternus真理veritasであるとされます。これは三角形の本性essentiaではなく,三角形の特質proprietasですので,思惟の様態cogitandi modiとしてみるなら,三角形が十全に認識されたときに含まれる意志作用volitioです。つまり三角形に対してその内角の和が二直角であることを肯定するaffirmare意志作用であることになります。ただしスピノザの哲学では,第二部定理四九により,意志作用は観念ideaに含まれているものであり,かつ観念には意志作用が必ず含まれているのですから,この意志作用が含まれている知性intellectusのうちには三角形の十全な観念idea adaequataがあります。ある図形について内角の和が二直角であることを肯定する意志作用は,平面上に描かれた三角形だけを肯定する意志作用であり,ほかのものを肯定する意志作用ではあり得ないからです。
このことが,スピノザの哲学では永遠の真理とされるわけです。しかしもし神Deusが自由意志voluntas liberaによって,平面上の三角形の内角の和が二直角ではないようにすることができる,たとえば三直角にすることができるのであれば,少なくともこの意志作用が平面上の三角形を永遠に肯定する意志作用であることはできなくなります。つまりそれは,その知性がそのことを肯定する意志作用を含むことによって有しているとされる三角形の観念が,永遠に十全な観念であることはできないということです。
僕は単にこのことだけで,神の本性に自由意志が含まれていては,その神を最高に完全summe perfectumであるとみなすことはできないと考えます。この意志作用と観念の関係はあらゆる個々の観念と個々の意志作用に妥当するのであり,そのためにスピノザの哲学では第二部定理四九系にあるように,個々の観念の総体である知性と個々の意志作用の総体である意志voluntasが同一であるとされるのです。よって神が自由意志によって真理を虚偽falsitasにしたり有esseを無にしたりできるなら,あるいは逆に虚偽を真理にまた無を有にすることができるのであれば,永遠の真理といわれる事柄は何もないことになります。つまりこの神は真理を創造したり産出したりすることはできません。対してスピノザの神は,真理だけ創造あるいは産出するのです。