『カラマーゾフの兄弟』の兄弟は,一般に4人ということになっています。すなわち,ドミートリイ,イワン,アリョーシャ,そしてスメルジャコフです。しかしこのうちスメルジャコフは,ほかの3人とは別のいわゆる私生児であって,リザヴェータ・スメルジャーシチャヤの子とされています。
しかし,僕が『カラマーゾフの兄弟』を読んだとき,実はスメルジャコフの本当の父親はカラマーゾフ家の召使であるグリゴーリイではないかと思っていました。グリゴーリイのスメルジャコフに対する愛情に,並々ならぬものを感じたからです。これは文学的な意味ではあまりに大胆な解釈だと思いますが,三兄弟の父であるヒョードルは,自分がスメルジャコフの父であるということについて,まったく否定はしていませんが,必ずしも肯定しているというわけではありませんから,自分なりの解釈として,まあいいだろうと思っています。
一方,スメルジャコフは性的な事柄に対して激しい嫌悪感をもっています。これはいささか異常なほどで,僕はこの点について,スメルジャコフは性的な事柄に関して何らかの肉体的欠陥があるのではないかと疑ったほどでした。単に精神的な清廉さだけでは説明できないほどのものを感じたからです。
これについて,『謎ときカラマーゾフの兄弟』で江川卓さんは,スメルジャコフは宗教的な理由によって去勢しているのではないかという説を展開しています。肉体的欠陥と宗教的理由による去勢ではまったく意味合いが異なりはしますが,これを読んで,スメルジャコフの性的なものに対する嫌悪感を,単に彼の精神面だけには還元できないと思った僕の感じ方も,そうもおかしくはなかったのだと思い直したのです。
明日は天皇賞です。アドマイヤムーン◎とダイワメジャー○の争いと思います。あとはメイショウサムソン△,マツリダゴッホ△,ポップロック△。
しかしこの疑問について僕は,このような消極的解決だけでなく,観念が精神が形成する精神の概念といわれることについて,そこにもう少し積極的な意味合いを探し出すこともできるのではないかと考えています。それは,スピノザの哲学において,事物の定義というものが定義される事物の本性を表現しなければならないという点に訴える方法です。
観念を定義するわけですから,そこには観念の本性が示されなければなりません。この場合,観念一般ではなくある観念,たとえばAの観念について考えれば分かりやすいと思うのですが,僕たちがAの観念をの本性を知るというのは,僕たちの精神のうちにAの観念の観念があるとか,僕たちがAの観念の観念を意識するということにほかなりません。したがって,観念の本性というのは,その観念の観念に変わるところがないものです。
これは,ある観念を考察の対象にする際には,観念というのは客観的なものですが,それをある形相的なものであるかのように考え,それに関して客観的有をもたなければ,そうした考察が不可能であるということからも明らかで,観念の客観的有というのはその観念の観念ですから,ある観念の本性を考察の対象にする場合,その観念の観念を形成することによって,僕たちはそれを知ることができるようになるのです。よって,やはりこうした考え方によっても,観念の本性とは観念の観念であるということが出てくるように思います。
しかし,僕が『カラマーゾフの兄弟』を読んだとき,実はスメルジャコフの本当の父親はカラマーゾフ家の召使であるグリゴーリイではないかと思っていました。グリゴーリイのスメルジャコフに対する愛情に,並々ならぬものを感じたからです。これは文学的な意味ではあまりに大胆な解釈だと思いますが,三兄弟の父であるヒョードルは,自分がスメルジャコフの父であるということについて,まったく否定はしていませんが,必ずしも肯定しているというわけではありませんから,自分なりの解釈として,まあいいだろうと思っています。
一方,スメルジャコフは性的な事柄に対して激しい嫌悪感をもっています。これはいささか異常なほどで,僕はこの点について,スメルジャコフは性的な事柄に関して何らかの肉体的欠陥があるのではないかと疑ったほどでした。単に精神的な清廉さだけでは説明できないほどのものを感じたからです。
これについて,『謎ときカラマーゾフの兄弟』で江川卓さんは,スメルジャコフは宗教的な理由によって去勢しているのではないかという説を展開しています。肉体的欠陥と宗教的理由による去勢ではまったく意味合いが異なりはしますが,これを読んで,スメルジャコフの性的なものに対する嫌悪感を,単に彼の精神面だけには還元できないと思った僕の感じ方も,そうもおかしくはなかったのだと思い直したのです。
明日は天皇賞です。アドマイヤムーン◎とダイワメジャー○の争いと思います。あとはメイショウサムソン△,マツリダゴッホ△,ポップロック△。
しかしこの疑問について僕は,このような消極的解決だけでなく,観念が精神が形成する精神の概念といわれることについて,そこにもう少し積極的な意味合いを探し出すこともできるのではないかと考えています。それは,スピノザの哲学において,事物の定義というものが定義される事物の本性を表現しなければならないという点に訴える方法です。
観念を定義するわけですから,そこには観念の本性が示されなければなりません。この場合,観念一般ではなくある観念,たとえばAの観念について考えれば分かりやすいと思うのですが,僕たちがAの観念をの本性を知るというのは,僕たちの精神のうちにAの観念の観念があるとか,僕たちがAの観念の観念を意識するということにほかなりません。したがって,観念の本性というのは,その観念の観念に変わるところがないものです。
これは,ある観念を考察の対象にする際には,観念というのは客観的なものですが,それをある形相的なものであるかのように考え,それに関して客観的有をもたなければ,そうした考察が不可能であるということからも明らかで,観念の客観的有というのはその観念の観念ですから,ある観念の本性を考察の対象にする場合,その観念の観念を形成することによって,僕たちはそれを知ることができるようになるのです。よって,やはりこうした考え方によっても,観念の本性とは観念の観念であるということが出てくるように思います。
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