ニーチェの影響でドストエフスキーをもう1度読んでみようと思った僕ですが,最初に手にしたのが『カラマーゾフの兄弟』でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/a0/0670da6bd07d7e865ea3d76f7e967efd.jpg)
僕は読書はほとんど電車の中ですが,読み始めてまあびっくり。おおよそ経験のないくらい退屈な物語でした。僕は読み始めれば最後まで読むことにしていますが,その習慣がなかったら,途中でやめてしまったかもしれません。
しかし,僕が退屈に感じたのにははっきりとした理由があります。この『カラマーゾフの兄弟』は,登場人物が多く,読んだ後で考えてみれば,その冒頭の部分というのは,ただ登場人物を紹介するということを主目的としてあるようです。実際,僕が退屈に感じたのはこの冒頭の部分のみであって,本編といえるような物語が始まってからは,この後の展開はどうなるのだろうといった具合に,ぐんぐんと読み進んでいきました。
僕が読んだのは新潮文庫版で,上・中・下と3巻ある話ですから,とても一口で説明できるようなものではありませんが,基本的にはある殺人事件が中心で,それに関わる人物の物語が散りばめられていきます。宗教的な話でもあり,俗世間的な話でもあります。
僕が最も印象に残っているのは第五編の四でイワンの長い台詞の中にあるこのことば。「俺は,やがて鹿がライオンのわきに寝そべるようになる日や,斬り殺された人間が起き上がって,自分を殺したやつと抱擁するところを,この目で見たいんだよ」。平和ということがどういうことであるか,明確なイメージを持っている人は実は少ないと僕は思っています。しかしこのことばの中には,そのイメージが明示されているように思うのです。
明日は竜王戦挑戦者決定トーナメント,右の山の準決勝があります。対戦するのは羽生善治三冠と佐藤康光ニ冠。羽生三冠にとって佐藤ニ冠は最も勝ち越している棋士で,対戦成績は羽生三冠の84勝42敗。勝った方が木村一基八段との挑戦者決定三番勝負に進出します。
明日から平塚で北京オリンピック日本応援競輪。3日制のGⅢで,夜の開催。実力的には岡部選手が中心になりそうです。
第二部定義六は,事物の完全性perfectioとはその事物の実在性realitasであるという意味ですから,それ自体では難しいところは何もないといえます。ただし,僕たちは普通はこういう意味である何らかの事物についてそれを完全とか不完全といったりはしないので,ここによく注意しなければなりません。
僕たちが一般的にどういう理由によって事物を完全といったり不完全といったりするようになったのかということについては,スピノザが『エチカ』の第四部の序言で説明していますので,詳しくはそれを読んでいただきたいですが,単純化すれば,まずある何らかの人工物について,その完成型を人は完全とみなし,したがってそれに近いものを完全,かけ離れたものを不完全というようになり,そのことが,単に人工的なもののみにとどまらずに,自然Naturaについてもいわれるようになったとスピノザは考えているようです。この是非については僕はここでは判断を保留しますが,僕にこの考え方がひとつ面白く感じられるのは,この完成型というのはある意味では事物のイデアと考えることができ,このイデアに近いものを完全,イデアからは遠いものを不完全と多くの人がみなしているとスピノザが考え,この考え方を否定している点です。ことによるとスピノザが事物が完全であるということを,その事物自体の実在性に等置したことと,スピノザの考え方が,イデア論に対して唯名論的であるということには,ある関連があるのかもしれません。
いずれにしてもこのことから理解できるように,たとえば人間の実在性はどの人間にあっても同一ですから,より完全な人間とより不完全な人間がいるというわけではありません。同様に,ある完全な三角形と,それより不完全な三角形が存在するということもないということになります。
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僕は読書はほとんど電車の中ですが,読み始めてまあびっくり。おおよそ経験のないくらい退屈な物語でした。僕は読み始めれば最後まで読むことにしていますが,その習慣がなかったら,途中でやめてしまったかもしれません。
しかし,僕が退屈に感じたのにははっきりとした理由があります。この『カラマーゾフの兄弟』は,登場人物が多く,読んだ後で考えてみれば,その冒頭の部分というのは,ただ登場人物を紹介するということを主目的としてあるようです。実際,僕が退屈に感じたのはこの冒頭の部分のみであって,本編といえるような物語が始まってからは,この後の展開はどうなるのだろうといった具合に,ぐんぐんと読み進んでいきました。
僕が読んだのは新潮文庫版で,上・中・下と3巻ある話ですから,とても一口で説明できるようなものではありませんが,基本的にはある殺人事件が中心で,それに関わる人物の物語が散りばめられていきます。宗教的な話でもあり,俗世間的な話でもあります。
僕が最も印象に残っているのは第五編の四でイワンの長い台詞の中にあるこのことば。「俺は,やがて鹿がライオンのわきに寝そべるようになる日や,斬り殺された人間が起き上がって,自分を殺したやつと抱擁するところを,この目で見たいんだよ」。平和ということがどういうことであるか,明確なイメージを持っている人は実は少ないと僕は思っています。しかしこのことばの中には,そのイメージが明示されているように思うのです。
明日は竜王戦挑戦者決定トーナメント,右の山の準決勝があります。対戦するのは羽生善治三冠と佐藤康光ニ冠。羽生三冠にとって佐藤ニ冠は最も勝ち越している棋士で,対戦成績は羽生三冠の84勝42敗。勝った方が木村一基八段との挑戦者決定三番勝負に進出します。
明日から平塚で北京オリンピック日本応援競輪。3日制のGⅢで,夜の開催。実力的には岡部選手が中心になりそうです。
第二部定義六は,事物の完全性perfectioとはその事物の実在性realitasであるという意味ですから,それ自体では難しいところは何もないといえます。ただし,僕たちは普通はこういう意味である何らかの事物についてそれを完全とか不完全といったりはしないので,ここによく注意しなければなりません。
僕たちが一般的にどういう理由によって事物を完全といったり不完全といったりするようになったのかということについては,スピノザが『エチカ』の第四部の序言で説明していますので,詳しくはそれを読んでいただきたいですが,単純化すれば,まずある何らかの人工物について,その完成型を人は完全とみなし,したがってそれに近いものを完全,かけ離れたものを不完全というようになり,そのことが,単に人工的なもののみにとどまらずに,自然Naturaについてもいわれるようになったとスピノザは考えているようです。この是非については僕はここでは判断を保留しますが,僕にこの考え方がひとつ面白く感じられるのは,この完成型というのはある意味では事物のイデアと考えることができ,このイデアに近いものを完全,イデアからは遠いものを不完全と多くの人がみなしているとスピノザが考え,この考え方を否定している点です。ことによるとスピノザが事物が完全であるということを,その事物自体の実在性に等置したことと,スピノザの考え方が,イデア論に対して唯名論的であるということには,ある関連があるのかもしれません。
いずれにしてもこのことから理解できるように,たとえば人間の実在性はどの人間にあっても同一ですから,より完全な人間とより不完全な人間がいるというわけではありません。同様に,ある完全な三角形と,それより不完全な三角形が存在するということもないということになります。
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