今年は3歳馬の参戦こそありませんでしたが,古馬だけで考えれば春の芝路線の大レースを制したすべての馬が出走し,豪華メンバーでのレースとなった第136回天皇賞(秋)。
僕が予想していた通りにコスモバルクが逃げ,前半の1000メートルが58秒6.スローに近いミドルペースといったところでしょうか。有力3頭ではメイショウサムソンが最も前で,内の4・5番手。ダイワメジャーがこれを見るような外に位置し,アドマイヤムーンはダイワメジャーをマークするようにその後ろ。
直線に入り,コスモバルクが少し外によれて馬場の4分どころを通ったのでメイショウサムソンはその内へ。そのまま追い出されると後ろを離しました。コスモバルクを追っていたエイシンデピュティが早めの仕掛けでコスモバルクの外へ出てきましたが,これも直線で外によれたので(降着処分),その外へ持ち出したダイワメジャーとアドマイヤムーンは不利を受け,結果的に大きく開くことになった馬場の中央からカンパニーとアグネスアークの伏兵2頭が追い上げ,カンパニーが一旦はメイショウサムソンに迫りましたがそこで一杯。最終的にはメイショウサムソンが2馬身半の差をつけて快勝。一杯になったカンパニーをゴール寸前で捕えたアグネスアークが2着に入り,カンパニーが3着でした。
優勝したメイショウサムソンは春の天皇賞に続く春秋連覇で大レース4勝目。母系はフロリースカップの一族。管理する高橋成忠調教師も春の天皇賞以来の大レース優勝。今回から手綱を取った武豊騎手はドバイデューティフリー以来の大レース優勝。本当は凱旋門賞に挑戦する予定だったのですが馬インフルエンザの影響で断念し,ここに備えました。ほかの馬に不利があったのも事実ですが,今日は意外なほどの楽勝で,春よりさらに強くなっているかもしれません。
ダイワメジャーはもう少し前で競馬がしたかったかもしれません。アドマイヤムーンともども不利を受けましたが,今日は走ったコースの差が,レースの結果に大きく影響してしまった感があり,これは少しばかり残念です。
僕たちがAの観念の本性を知るということは,Aの観念ideaが僕たちの精神mensのうちで十全な観念idea adaequataであるということを前提として,僕たちの精神のうちにAの観念の観念idea ideaeがある,あるいはもっと正確にいえば,僕たちが自分自身の精神のうちにあるAの観念の観念について,それを意識するということにほかなりません。そこでこのことから一般的に,観念の本性naturaとは観念の観念にほかならないということが出てくるわけです。そこで,スピノザの哲学の定義Definitioに関する原則である,事物の定義は定義されるその事物の本性を示さなければならないという点に注意するなら,実は観念の定義というのは,観念の観念に関するある説明であるということになります。
そこで,この観念の定義において,観念が,精神が形成する精神の概念Mentis conceptumであるといわれていることに注目するなら,実はこれがまさに,観念の本性とは観念の観念にほかならないということと,構造を同一にしているといえるように僕は思うのです。なぜなら,精神がある観念そのもの,あるいは観念の集合体であるということと,概念というのがある観念,能動的な観念であるということはすでに明らかになっていますが,これでみれば,精神の概念というのは,観念の観念であると考えることができるからです。
したがって,観念が精神の概念であるといわれるとき,この問題は致し方ないことであると消極的に解決するのも十分に一理あると僕は思いますが,ここには,観念の本性とは観念の観念であるということが,積極的な意味として含まれているのであると考えることも,僕はできるのではないかと思います。
僕が予想していた通りにコスモバルクが逃げ,前半の1000メートルが58秒6.スローに近いミドルペースといったところでしょうか。有力3頭ではメイショウサムソンが最も前で,内の4・5番手。ダイワメジャーがこれを見るような外に位置し,アドマイヤムーンはダイワメジャーをマークするようにその後ろ。
直線に入り,コスモバルクが少し外によれて馬場の4分どころを通ったのでメイショウサムソンはその内へ。そのまま追い出されると後ろを離しました。コスモバルクを追っていたエイシンデピュティが早めの仕掛けでコスモバルクの外へ出てきましたが,これも直線で外によれたので(降着処分),その外へ持ち出したダイワメジャーとアドマイヤムーンは不利を受け,結果的に大きく開くことになった馬場の中央からカンパニーとアグネスアークの伏兵2頭が追い上げ,カンパニーが一旦はメイショウサムソンに迫りましたがそこで一杯。最終的にはメイショウサムソンが2馬身半の差をつけて快勝。一杯になったカンパニーをゴール寸前で捕えたアグネスアークが2着に入り,カンパニーが3着でした。
優勝したメイショウサムソンは春の天皇賞に続く春秋連覇で大レース4勝目。母系はフロリースカップの一族。管理する高橋成忠調教師も春の天皇賞以来の大レース優勝。今回から手綱を取った武豊騎手はドバイデューティフリー以来の大レース優勝。本当は凱旋門賞に挑戦する予定だったのですが馬インフルエンザの影響で断念し,ここに備えました。ほかの馬に不利があったのも事実ですが,今日は意外なほどの楽勝で,春よりさらに強くなっているかもしれません。
ダイワメジャーはもう少し前で競馬がしたかったかもしれません。アドマイヤムーンともども不利を受けましたが,今日は走ったコースの差が,レースの結果に大きく影響してしまった感があり,これは少しばかり残念です。
僕たちがAの観念の本性を知るということは,Aの観念ideaが僕たちの精神mensのうちで十全な観念idea adaequataであるということを前提として,僕たちの精神のうちにAの観念の観念idea ideaeがある,あるいはもっと正確にいえば,僕たちが自分自身の精神のうちにあるAの観念の観念について,それを意識するということにほかなりません。そこでこのことから一般的に,観念の本性naturaとは観念の観念にほかならないということが出てくるわけです。そこで,スピノザの哲学の定義Definitioに関する原則である,事物の定義は定義されるその事物の本性を示さなければならないという点に注意するなら,実は観念の定義というのは,観念の観念に関するある説明であるということになります。
そこで,この観念の定義において,観念が,精神が形成する精神の概念Mentis conceptumであるといわれていることに注目するなら,実はこれがまさに,観念の本性とは観念の観念にほかならないということと,構造を同一にしているといえるように僕は思うのです。なぜなら,精神がある観念そのもの,あるいは観念の集合体であるということと,概念というのがある観念,能動的な観念であるということはすでに明らかになっていますが,これでみれば,精神の概念というのは,観念の観念であると考えることができるからです。
したがって,観念が精神の概念であるといわれるとき,この問題は致し方ないことであると消極的に解決するのも十分に一理あると僕は思いますが,ここには,観念の本性とは観念の観念であるということが,積極的な意味として含まれているのであると考えることも,僕はできるのではないかと思います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます