青森記念の2日目優秀として争われた八甲田賞。
前受けしたのは山崎選手率いる北日本ラインで,これに村本-渡辺,山口が続いて7番手以下に西国勢。打鐘前に吉岡選手が上昇しましたがこれがちょっと中途半端。山崎選手が楽に突っ張り先行となり,小川選手が山口選手の後ろに切替えたためにバックに入る段階では吉岡選手は一列棒状の8番手とほぼ絶望的な位置。途中に動く選手もひとりもいなかったためにかなり淡白なレースとなり,山崎選手の番手の地元の坂本選手が車間を少し開け,直線では差し切って1着。山崎選手が2着に粘り,佐々木選手が3着と北日本の上位独占。以下も,村本選手,渡辺選手,山口選手,小川選手と,道中の順番通りの入線となりました。
前受けから突っ張るという作戦を採った北日本の作戦勝ちというべき競走で,吉岡選手はもっと早めに上昇するべきであったように思います。それなら山崎選手も無理に突っ張ることはできなかったかもしれず,吉岡選手が一旦は前に出きってしまえば違ったレース展開になったのではないでしょうか。
神Deusの実在をそれ自体で知ることを『エチカ』に訴えて考える場合に,もうひとつ,鍵となると僕が考えるのが第二部定理四七です。
「人間精神は神の永遠・無限なる本質の妥当な認識を有する(Mens humana adaequatam habet cognitionem aeternae, et infinitae essentiae Dei.)」。
この定理Propositioの場合には本文の中には難しいところは何もないと思いますから,ただそのまま理解すれば問題ないでしょう。
ところで,神の本性essentiaeを妥当に認識するcognoscereということは,神の十全な観念idea adaequataを有するという意味であり,したがってこの定理は,人間は神の十全な観念を有するという意味になります。ところが,神は第一部定義六から実体substantiaであり,よって第一部定理七からその本性には存在existentiaが属するのです。したがって,人間が神の十全な観念を有するということは,とりもなおさず,人間は神が存在するということを知るということに等しいと僕は考えます。そのゆえに,この第二部定理四七に,人間が神の実在をそれ自体で知り得るということが含まれているのではないかと僕は考えるのです。
前受けしたのは山崎選手率いる北日本ラインで,これに村本-渡辺,山口が続いて7番手以下に西国勢。打鐘前に吉岡選手が上昇しましたがこれがちょっと中途半端。山崎選手が楽に突っ張り先行となり,小川選手が山口選手の後ろに切替えたためにバックに入る段階では吉岡選手は一列棒状の8番手とほぼ絶望的な位置。途中に動く選手もひとりもいなかったためにかなり淡白なレースとなり,山崎選手の番手の地元の坂本選手が車間を少し開け,直線では差し切って1着。山崎選手が2着に粘り,佐々木選手が3着と北日本の上位独占。以下も,村本選手,渡辺選手,山口選手,小川選手と,道中の順番通りの入線となりました。
前受けから突っ張るという作戦を採った北日本の作戦勝ちというべき競走で,吉岡選手はもっと早めに上昇するべきであったように思います。それなら山崎選手も無理に突っ張ることはできなかったかもしれず,吉岡選手が一旦は前に出きってしまえば違ったレース展開になったのではないでしょうか。
神Deusの実在をそれ自体で知ることを『エチカ』に訴えて考える場合に,もうひとつ,鍵となると僕が考えるのが第二部定理四七です。
「人間精神は神の永遠・無限なる本質の妥当な認識を有する(Mens humana adaequatam habet cognitionem aeternae, et infinitae essentiae Dei.)」。
この定理Propositioの場合には本文の中には難しいところは何もないと思いますから,ただそのまま理解すれば問題ないでしょう。
ところで,神の本性essentiaeを妥当に認識するcognoscereということは,神の十全な観念idea adaequataを有するという意味であり,したがってこの定理は,人間は神の十全な観念を有するという意味になります。ところが,神は第一部定義六から実体substantiaであり,よって第一部定理七からその本性には存在existentiaが属するのです。したがって,人間が神の十全な観念を有するということは,とりもなおさず,人間は神が存在するということを知るということに等しいと僕は考えます。そのゆえに,この第二部定理四七に,人間が神の実在をそれ自体で知り得るということが含まれているのではないかと僕は考えるのです。
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