スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

善と悪&力と権利

2022-09-17 19:17:15 | 哲学
 第四部序言の中で,完全性perfectioを実在性realitasと等置することの根拠を述べた後,スピノザは善悪についても語っています。『人間における自由Man for Himself』の中で,フロムErich Seligmann Frommはその部分も援用しています。今回は先にスピノザが序言の中で何を言っているのかということを検証し,フロムの援用が適切であるか否かは後で考察するという順にします。
                                   
 スピノザがまずいっているのは,完全性が複数のものの比較から知性intellectusのうちに生じる場合は,完全であるとか不完全であるといわれる事物の本性essentiaではなく思惟の様態cogitandi modiであるのと同じように,あるものが善bonumといわれまた悪malumといわれるのは,そのようにいわれる事物の積極的なものを表示しているわけではなく,思惟の様態であるということです。つまり知性が複数のものを比較することによって知性のうちに生じる概念notioであるということです。
 このことは,善と悪とは対立する概念であるということに留意するなら,きわめて当然のことといえるでしょう。仮にある知性がひとつのものだけを認識するcognoscereのであれば,そのものを善であると認識したり悪であると認識したりすることは不可能なのであって,複数のものが比較されることによって,一方が善で他方が悪であるというように認識されるのだからです。そしてこれは,『エチカ』における善と悪のそれぞれの定義Definitio,すなわち第四部定義一第四部定義二に合致しています。それらの定義では善も悪も,我々が確知するものquominus boni alicujus simus compotesといわれていますが,確知するとはまさに知性が事物を認識するあり方の一種なのですから,各々の定義は善も悪も思惟の様態であるということを明らかに示しているからです。
 このことから分かるように,善悪は普遍的な概念ではありません。あるものが,Aという人間には善とみなされるけれどもBという人間には悪とみなされ,それとは別のCという人間はそれを善であるとも悪であるともみなさない,つまり善悪という観点からは中間物であるというようにみなされることもあるのです。それがすべての事物に妥当するので,普遍的に善であるものや普遍的に悪であることというのは何もありません。

 スピノザは権利jusを力potentiaと等置します。存在し得ることは力であり,存在し得ないことは無力impotentiaなので,現実的に存在するすべての個物res singularisには自然権jus naturaeがあることになるのです。また,現実的に存在するすべての個物は,なし得るすべてのことを最高の自然権の下になすといわれることになるのです。当然ながら自然権は権利のひとつですから,スピノザが自然権というときは,ひとつの力として解さなければなりません。そして自然権に限らず,あらゆる権利について,それを力と解さなければなりません。
 このときに気を付けなければならないのは,スピノザは力というのを,可能的なものであるとは解さず,現実的なものと解しているという点です。他面からいえば,スピノザは力というのを現実的なものとしてのみ規定しているのであって,可能的なものとしての力があるということは認めていないのです。たとえばある人間が現実的に存在しているとして,その人間が受動感情に隷属した状態にあると仮定します。このときにスピノザは,この人間に理性ratioによって事物を認識するcognoscere力があるということを認めません。理性によって思惟している状態にある人間が受動感情に隷属しているということはあり得ないからです。もちろんこの同じ人間は,別のときには理性によって事物を認識することがあり得ます。そしてそのときにはスピノザも,この人間には理性によって事物を認識する力があるといいます。つまり現実的に理性によって事物を認識しているときにはその人間には理性によって事物を認識する力があるといわれるのですが,そうでないときには,たとえその人間が別のときには理性によって事物を認識することがあるのだとしても,理性によって事物を認識する力があるとはスピノザは認めないのです。これがスピノザは力を現実的なものとしてのみ認め,可能的なものとしては認めないということの具体的な意味です。
 この力が権利と等置されるのですから,スピノザは権利についても,現実的なものとしてのみ認めていて,可能的なものとしては認めていないと解さなければなりません。つまり受動感情に隷属している人間は,理性で事物を認識する権利がないのです。

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