スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

宮廷人と異端者&実例

2014-05-29 19:11:09 | 哲学
 スピノザとライプニッツの関係をまとめ上げたものとして,マシュー・スチュアートMatthew Stewartの『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』があります。日本語訳を担当しているのは「スピノザのマテリアリスム」の桜井直文と『概念と個別性』の朝倉友海。
                         
 1976年11月のライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizのスピノザ訪問が主題。第一章と第十二章がそれに充てられています。第二章から第十一章まではそれまでのふたりの人生が中心。偶数章がスピノザで奇数章がライプニッツ。第十三章以降は,スピノザ訪問後のライプニッツに焦点が集中。ですから全体の分量からいえば,スピノザよりもライプニッツに対する言及の方が多くなっています。
 著者はいわゆる専門の研究者ではありません。1990年代半ば,経営コンサルタントとしてオランダに滞在しているとき,スピノザとライプニッツに関して何かを書いてみようと思い立ったとのこと。最初はそれを小説にしようと思い,そのうちに戯曲の方がよいのではないかと思い始め,最後には映画の脚本にするのがベストだと考えたとのこと。その後,アルカイダによるアメリカに対するテロ攻撃が勃発。アメリカの政治がその後に神権政治的方向に走り始めたと感じたとき,スチュアートはスピノザとライプニッツの出会いに思いを至らせ,このことを何の脚色も加えずに,事実そのものとして呈示するのがよいだろうと構想。こうして2006年にこの本が出版されることになりました。日本語版の刊行日は2011年11月30日です。
 上記のような構想の下に書かれたものなので,事実だけを呈示しているといいながら,ドラマ仕立てになっているという印象は残りました。部分的にはふたりの会見を盛り上げるための,ある程度のフィクションが混在していると前提した方がいいと思います。
 僕はライプニッツには詳しくないので,その一端を知る上で大いに役立ちました。そもそもスピノザが異端者といわれる理由は分かっていましたが,ライプニッツが宮廷人といわれなければならない理由すら,僕はよく知っていなかったくらいです。ただ,ライプニッツを見る視点に,やや悪意がこもっているような印象が残ったのも事実です。

 僕は永遠の一義性は神Deusとその属性attributum,そして各々の属性の無限様態modus infinitusから把握されるべきだという考えです。まずその根拠を示します。
 第一部定理二一証明で,スピノザは神の観念idea Deiというのをひとつの実例として示します。これは神が有する神自身の観念という意味で,思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態である無限知性intellectus infinitusのことです。この定理Propositioにおいて証明されるべき事柄が何かという観点から,このように理解しなければ,こうした実例を出す意味がありません。その上でスピノザは,この無限知性は属性によって,ここは正確には思惟の属性によってというべきですが,永遠aeterunusであると証明Demonstratioを結んでいます。
 ここには,無限知性は思惟の属性という原因causaによって永遠なのであり,属性がその本性essentiaによって永遠であるのとは異なるという意味合いを見出すことも可能です。これはちょうど,実体substantiaおよび属性と,無限様態の無限性の由来の相違にある関係と同一です。しかしこと永遠性aeternitasという点にのみ着目するならば,無限知性と思惟の属性は同じ意味で永遠であるといわれていると解さなければなりません。そうでない限り,無限知性は思惟の属性によって永遠であるという言明自体,意味を失ってしまうからです。したがって思惟の属性の永遠性と無限知性の永遠性を,スピノザは一義的に解釈していたと僕は考えます。
 無限知性は具体例のひとつです。この定理は一般に直接無限様態が永遠であることを証明するための定理です。よって一般に,各々の属性の永遠性とその属性の直接無限様態の永遠性を,スピノザは一義的に把握していたという解釈が成立します。
 次に第一部定理二二証明は,第一部定理二一証明と同一の仕方で進められるとだけスピノザはいっています。ということは,当然ながら間接無限様態の永遠性に関しても,スピノザはその間接無限様態が様態化している属性の永遠性と一義的に理解していたといわなければなりません。
 第一部定理二三は,これ以外の仕方では無限様態は発生しないことを示しています。したがっていかなる無限様態の永遠性も,神およびその属性の永遠性と一義的に理解されるべきだと僕は結論します。

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