小田原競輪場が舞台に選ばれた今年の花月園メモリアルの決勝。並びは佐藤に布居,松谷ー松坂の神奈川,守谷ー児玉-吉岡の中四国,小川ー田中の福岡。
田中がスタートを取ったので小川が前受け。3番手に守谷,6番手に松谷,8番手から佐藤で周回。残り3周のホームから佐藤が上がっていき,バックでは小川を叩いて先頭に。しかしこのラインに乗った松谷がホームで叩くと引いた守谷が叩き返し,めまぐるしく隊列が入れ替わりましたが,バックで前に出たのは守谷。これを外から佐藤が巻き返しにいって打鐘でしたが,守谷が突っ張ってそのまま先行。松谷と佐藤が併走のように中団で,小川が後方に。バックでインの松谷が佐藤を弾いて発進。直線入口で2番手付近まで上がると,児玉の牽制も関係なく,守谷を捕えて優勝。マークの松坂が半車輪差で続いて神奈川のワンツー。逃げ粘った守谷が8分の1車輪差で3着。
優勝した神奈川の松谷秀幸選手はこれがグレードレース初優勝。高松宮記念杯が迫っていますから,トップクラスの参戦はなく,FⅠでの実績から,優勝候補のひとりでした。決勝は小川が強敵であったと思いますが,それより前に位置できたことが勝因でしょう。自力型ですが,レース運びは上手な面があり,さらに脚力をつければ,通常の記念競輪レベルでの活躍も可能になってくるのではないかと思います。
僕が絶対的な仕方と一定の仕方というのが対義語的関係にあるというとき,それはたとえば喜びlaetitiaと悲しみtristitia,あるいは不安metusと希望spesが対義語であるという場合と,均一の意味ではありません。喜びと悲しみ,不安metusと希望は,概念conceptusとしてみられた場合に正反対であるからことばとしても対義語であるとみなされるわけですが,僕は絶対的な仕方と一定の仕方というのが,それと同じ意味で対義語であると考えているのではありません。だから僕はこれを,はっきりと対義語であるとはいわずに,一種の対義語であるとか,対義語的関係にあるというように表現していたのです。この点については誤解されないように注意願います。
では,一般的な意味において,対義語的関係,すなわち一種の対義語というのを,僕がどのように理解しているのかということを,詳しく説明していきます。
まず,AとBというふたつを措定します。そして,このAとBとが対義語的関係にあると仮定します。僕の理解では,このために大きな条件となるのはふたつの点です。
第一に,もしもあるもの,仮にXがあるとして,XがAであってBでもあるといい得るような場合,この場合にはAとBとは対義語的関係を構成することが不可能であると僕はみなします。したがって,Xなるものは,AであるかそうでなければBであるかのどちらかひとつである場合にのみ,AとBとは対義語的関係であり得るということになります。
第二に,同様にXなるものがあって,XがAではないがBでもないという場合が成立するとしたら,この場合にもAとBとは対義語的関係を構築するのが難しくなります。難しいといって,成立しないといわないのは,この場合には別の条件が勘案されなければならないと僕は考えるからです。
対義語的関係にあるAとBとが,同じYというある性質を有するものとします。このとき,XもYであってしかしAでもBでもないならば,AとBとは対義語的関係を構成し得ません。しかしXがYでないならば,XがAでもBでもないのは当然でしょう。この場合には,この条件だけでAとBが対義語的関係を構成し得ないと結論付けられないと思います。
田中がスタートを取ったので小川が前受け。3番手に守谷,6番手に松谷,8番手から佐藤で周回。残り3周のホームから佐藤が上がっていき,バックでは小川を叩いて先頭に。しかしこのラインに乗った松谷がホームで叩くと引いた守谷が叩き返し,めまぐるしく隊列が入れ替わりましたが,バックで前に出たのは守谷。これを外から佐藤が巻き返しにいって打鐘でしたが,守谷が突っ張ってそのまま先行。松谷と佐藤が併走のように中団で,小川が後方に。バックでインの松谷が佐藤を弾いて発進。直線入口で2番手付近まで上がると,児玉の牽制も関係なく,守谷を捕えて優勝。マークの松坂が半車輪差で続いて神奈川のワンツー。逃げ粘った守谷が8分の1車輪差で3着。
優勝した神奈川の松谷秀幸選手はこれがグレードレース初優勝。高松宮記念杯が迫っていますから,トップクラスの参戦はなく,FⅠでの実績から,優勝候補のひとりでした。決勝は小川が強敵であったと思いますが,それより前に位置できたことが勝因でしょう。自力型ですが,レース運びは上手な面があり,さらに脚力をつければ,通常の記念競輪レベルでの活躍も可能になってくるのではないかと思います。
僕が絶対的な仕方と一定の仕方というのが対義語的関係にあるというとき,それはたとえば喜びlaetitiaと悲しみtristitia,あるいは不安metusと希望spesが対義語であるという場合と,均一の意味ではありません。喜びと悲しみ,不安metusと希望は,概念conceptusとしてみられた場合に正反対であるからことばとしても対義語であるとみなされるわけですが,僕は絶対的な仕方と一定の仕方というのが,それと同じ意味で対義語であると考えているのではありません。だから僕はこれを,はっきりと対義語であるとはいわずに,一種の対義語であるとか,対義語的関係にあるというように表現していたのです。この点については誤解されないように注意願います。
では,一般的な意味において,対義語的関係,すなわち一種の対義語というのを,僕がどのように理解しているのかということを,詳しく説明していきます。
まず,AとBというふたつを措定します。そして,このAとBとが対義語的関係にあると仮定します。僕の理解では,このために大きな条件となるのはふたつの点です。
第一に,もしもあるもの,仮にXがあるとして,XがAであってBでもあるといい得るような場合,この場合にはAとBとは対義語的関係を構成することが不可能であると僕はみなします。したがって,Xなるものは,AであるかそうでなければBであるかのどちらかひとつである場合にのみ,AとBとは対義語的関係であり得るということになります。
第二に,同様にXなるものがあって,XがAではないがBでもないという場合が成立するとしたら,この場合にもAとBとは対義語的関係を構築するのが難しくなります。難しいといって,成立しないといわないのは,この場合には別の条件が勘案されなければならないと僕は考えるからです。
対義語的関係にあるAとBとが,同じYというある性質を有するものとします。このとき,XもYであってしかしAでもBでもないならば,AとBとは対義語的関係を構成し得ません。しかしXがYでないならば,XがAでもBでもないのは当然でしょう。この場合には,この条件だけでAとBが対義語的関係を構成し得ないと結論付けられないと思います。
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