『なぜ漱石は終わらないのか』の序章は『文学論』をテーマとした会談になっています。実は僕は『文学論』はそのすべてを読んでいません。岩波文庫から『漱石文芸論集』という磯田光一が編集した文庫本が出版されていて,その中に『文学論』の序章と第三編第二章の一部が収録されています。僕が読んでいるのはその部分だけです。なのでここでは『文学論』の成り立ちを詳しく紹介しておきます。
漱石がイギリスへの留学を命じられたのは1900年5月で,漱石は熊本の第五高等学校の講師をしていました。留学の準備のために7月に帰京。9月8日に横浜から船で旅立ちました。ロンドンに到着したのは10月28日の夜です。『文学論』の著述を計画したのはこのロンドン留学中のことで,1901年の4月ごろのことだったと推定されています。1902年の1月には実際に執筆を開始。この年の3月15日付で中根重一,妻の父で漱石からみれば義父に宛てた書簡の中で,その大掛かりな構想について説明しています。
この年の10月にスコットランドを旅行し,12月5日にロンドンを出発しました。帰国船の到着は神戸で,1903年1月23日のことでした。帰京した後に第五高等学校の講師は辞職。4月からは東京で第一高等学校の教授職と,東京帝国大学の英文科の講師を兼任するようになりました。8月になって『文学論』のためのノートをまとめた上で,9月から東京帝国大学の方でその講義を開始しました。当時の東京帝国大学は9月が新学期でしたから,これは漱石が年間を通して行う講義としては最初のものだったことになります。これが週に3時間の講義だったのですが,この学期が終了するまでには終わらず,1905年の6月まで続きました。この6月というのは事実上の学期末を意味しているのだろうと思われます。つまり週に3時間の講義を約2年間かけて行ったものの総体が『文学論』であったことになります。
小説家としてのデビュー作である『吾輩は猫である』が書かれたのは1906年1月です。つまり作家デビューの前に漱石は,かなり大掛かりな文学論に取り組んでいたのです。
現実的にAという人間とそれとは別のBという人間が存在するとき,Aの現実的本性actualis essentiaとBの現実的本性は異なります。あるいは同じことですが一致しません。第三部定理五七はこうしたことが前提とされていなければ成立しませんから,スピノザがそうみていることは間違いありません。
このことはしかし,第二部定義二から明白であるといわなければならないのです。なぜなら,この定義Definitioによれば,AはAの本性essentiaがなければあることも考えるconcipereこともできません。ここではAが現実的に存在していると仮定されているので,Aの現実的本性がなければ,Aがあることも考えることもできないということになります。そして逆に,Aの現実的本性があるのであれば,Aはあることも考えることもできるということになります。そしてこのことはBにとっても同様です。BはBの実的本性がないのであれば,現実的にあることはできませんし考えることもできません。そして,Bの現実的本性があるのであれば,Bは現実的にあることもできるし現実的に存在するものとして考えることができるのです。したがって,もしもAの現実的本性とBの現実的本性が一致するというならば,その現実的本性によってAもBもあることができるし考えることができるということになります。これはAとBは同一のものである,現実的に存在する人間として考慮するなら,AとBは同一人物であるといっているのと同じです。しかし仮定ではAとBは現実的に存在する別の人間であるとされているのですから,この結論は仮定に反します。つまりこの背理法によって,Aの現実的本性とBの現実的本性は異なるのであり,完全には一致しないということが論証されます。
このことはAとBというふたりの現実的に存在する人間の間でのみ成立するわけではありません。現実的にひとりの人間が存在するたびごとに,このことが成立するのです。つまり現実的に存在する人間の数だけ現実的本性があるのであり,それだけではなく,現実的に存在した人間の数だけ現実的本性があったのであり,またこれから人間が現実的に存在するたびごとに,その数だけその人間の現実的本性があることになるのです。
漱石がイギリスへの留学を命じられたのは1900年5月で,漱石は熊本の第五高等学校の講師をしていました。留学の準備のために7月に帰京。9月8日に横浜から船で旅立ちました。ロンドンに到着したのは10月28日の夜です。『文学論』の著述を計画したのはこのロンドン留学中のことで,1901年の4月ごろのことだったと推定されています。1902年の1月には実際に執筆を開始。この年の3月15日付で中根重一,妻の父で漱石からみれば義父に宛てた書簡の中で,その大掛かりな構想について説明しています。
この年の10月にスコットランドを旅行し,12月5日にロンドンを出発しました。帰国船の到着は神戸で,1903年1月23日のことでした。帰京した後に第五高等学校の講師は辞職。4月からは東京で第一高等学校の教授職と,東京帝国大学の英文科の講師を兼任するようになりました。8月になって『文学論』のためのノートをまとめた上で,9月から東京帝国大学の方でその講義を開始しました。当時の東京帝国大学は9月が新学期でしたから,これは漱石が年間を通して行う講義としては最初のものだったことになります。これが週に3時間の講義だったのですが,この学期が終了するまでには終わらず,1905年の6月まで続きました。この6月というのは事実上の学期末を意味しているのだろうと思われます。つまり週に3時間の講義を約2年間かけて行ったものの総体が『文学論』であったことになります。
小説家としてのデビュー作である『吾輩は猫である』が書かれたのは1906年1月です。つまり作家デビューの前に漱石は,かなり大掛かりな文学論に取り組んでいたのです。
現実的にAという人間とそれとは別のBという人間が存在するとき,Aの現実的本性actualis essentiaとBの現実的本性は異なります。あるいは同じことですが一致しません。第三部定理五七はこうしたことが前提とされていなければ成立しませんから,スピノザがそうみていることは間違いありません。
このことはしかし,第二部定義二から明白であるといわなければならないのです。なぜなら,この定義Definitioによれば,AはAの本性essentiaがなければあることも考えるconcipereこともできません。ここではAが現実的に存在していると仮定されているので,Aの現実的本性がなければ,Aがあることも考えることもできないということになります。そして逆に,Aの現実的本性があるのであれば,Aはあることも考えることもできるということになります。そしてこのことはBにとっても同様です。BはBの実的本性がないのであれば,現実的にあることはできませんし考えることもできません。そして,Bの現実的本性があるのであれば,Bは現実的にあることもできるし現実的に存在するものとして考えることができるのです。したがって,もしもAの現実的本性とBの現実的本性が一致するというならば,その現実的本性によってAもBもあることができるし考えることができるということになります。これはAとBは同一のものである,現実的に存在する人間として考慮するなら,AとBは同一人物であるといっているのと同じです。しかし仮定ではAとBは現実的に存在する別の人間であるとされているのですから,この結論は仮定に反します。つまりこの背理法によって,Aの現実的本性とBの現実的本性は異なるのであり,完全には一致しないということが論証されます。
このことはAとBというふたりの現実的に存在する人間の間でのみ成立するわけではありません。現実的にひとりの人間が存在するたびごとに,このことが成立するのです。つまり現実的に存在する人間の数だけ現実的本性があるのであり,それだけではなく,現実的に存在した人間の数だけ現実的本性があったのであり,またこれから人間が現実的に存在するたびごとに,その数だけその人間の現実的本性があることになるのです。
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