12月26日に囲碁将棋チャンネルで放映された第31回銀河戦の決勝。対局日は11月1日。対戦成績は藤井聡太銀河が1勝,丸山忠久九段が1勝。
振駒で丸山九段の先手となって角換わり相腰掛銀。後手の藤井銀河は右玉に組みました。
第1図に至る過程で後手は千日手も含みにがっちりと受ける指し方もありました。あるいはその方がよかったかもしれません。
第1図で☖8四桂と打って攻めていきました。この局面は受ける手段に窮していますから攻めていくのは仕方がないところ。☖6四桂と打つ手も有力で,飛車先が通っている分だけそちらの方がよかった可能性もありそうです。
☖7六桂は許せないと☗7七銀と引いて受けました。
そこで☖7五歩と突いていきましたが☗4二歩成と攻め合われ,☖7六歩☗8六銀☖5五角☗同角のときに☖4二銀と手を戻さざるを得ず,☗7四歩で先手の勝勢となりました。
☖7五歩が緩手で,ここは☖8五桂でなければいけませんでした。それで後手が勝てるわけではないのですが,実戦のような攻め合いにはなり得ないので,難解な終盤が続くことになったでしょう。
丸山九段が優勝。2005年度のNHK杯以来の9度目の棋戦優勝で,銀河戦は初優勝です。
何年か前に,ある種の知的障害者は家族を不幸にする,すなわち家族に悲しみtristitiaを齎すという認識cognitioの下に,そうした障害者を次々に殺害するという事件が生じました。僕は,知的障害者が家族を不幸にするということ,他面からいえば自分の家族に知的障害者が存在するということで悲しみを感じるという人が存在するということ自体は否定しません。ただ,割合でいえばそれは少数なのであって,そのことで喜びlaetitiaを感じる人の方が多数であると考えます。なので一般的に,どのような知的障害者であっても,何らかの知的障害があるがゆえにそのことが家族を不幸にするということは,一般的には誤謬errorです。
ではその殺人犯がきわめて特殊な認識を有していたのかといえば,僕は必ずしもそのようには思わないのです。実際に現行のグループホームの制度設計は,知的障害者が家に帰ることを家族は忌避するという前提の下に作成されているといえるのですから,このような認識は多かれ少なかれ社会の共通認識であるというように前提されているといえなくもないからです。
あえていえば,家族を不幸にする,いい換えれば家族を悲しませるというようなことは,知的障害者であるかないかに関わらずだれにでも生じるのです。少なくとも,ある種の知的障害者は家族を不幸にするという認識を肯定し,あるいは同じことですがそうした意志作用volitioを有し,その意志作用の下に実際に知的障害者を殺戮するような人間と,絶対にそのような意志作用をもたないしそのようなことをなすこともない知的障害者を比較したときに,どちらが家族を不幸にしているのかというなら,前者であることは明白であると僕は思います。つまり,知的障害者は確かに知的な障害があるがゆえに家族を不幸にするということがあり得ることを僕は肯定しますが,そうでない人は知的な障害がないがゆえに知的障害者であれば絶対にそうならないような仕方で家族を不幸にするということがあり得るのです。そして現実に家族を不幸にしているのは,知的障害者であるよりは,知的障害をもっていない人の方が,割合としていえばずっと多いだろうと僕は思います。
とはいえ制度は制度なので対応は必要です。
振駒で丸山九段の先手となって角換わり相腰掛銀。後手の藤井銀河は右玉に組みました。
第1図に至る過程で後手は千日手も含みにがっちりと受ける指し方もありました。あるいはその方がよかったかもしれません。
第1図で☖8四桂と打って攻めていきました。この局面は受ける手段に窮していますから攻めていくのは仕方がないところ。☖6四桂と打つ手も有力で,飛車先が通っている分だけそちらの方がよかった可能性もありそうです。
☖7六桂は許せないと☗7七銀と引いて受けました。
そこで☖7五歩と突いていきましたが☗4二歩成と攻め合われ,☖7六歩☗8六銀☖5五角☗同角のときに☖4二銀と手を戻さざるを得ず,☗7四歩で先手の勝勢となりました。
☖7五歩が緩手で,ここは☖8五桂でなければいけませんでした。それで後手が勝てるわけではないのですが,実戦のような攻め合いにはなり得ないので,難解な終盤が続くことになったでしょう。
丸山九段が優勝。2005年度のNHK杯以来の9度目の棋戦優勝で,銀河戦は初優勝です。
何年か前に,ある種の知的障害者は家族を不幸にする,すなわち家族に悲しみtristitiaを齎すという認識cognitioの下に,そうした障害者を次々に殺害するという事件が生じました。僕は,知的障害者が家族を不幸にするということ,他面からいえば自分の家族に知的障害者が存在するということで悲しみを感じるという人が存在するということ自体は否定しません。ただ,割合でいえばそれは少数なのであって,そのことで喜びlaetitiaを感じる人の方が多数であると考えます。なので一般的に,どのような知的障害者であっても,何らかの知的障害があるがゆえにそのことが家族を不幸にするということは,一般的には誤謬errorです。
ではその殺人犯がきわめて特殊な認識を有していたのかといえば,僕は必ずしもそのようには思わないのです。実際に現行のグループホームの制度設計は,知的障害者が家に帰ることを家族は忌避するという前提の下に作成されているといえるのですから,このような認識は多かれ少なかれ社会の共通認識であるというように前提されているといえなくもないからです。
あえていえば,家族を不幸にする,いい換えれば家族を悲しませるというようなことは,知的障害者であるかないかに関わらずだれにでも生じるのです。少なくとも,ある種の知的障害者は家族を不幸にするという認識を肯定し,あるいは同じことですがそうした意志作用volitioを有し,その意志作用の下に実際に知的障害者を殺戮するような人間と,絶対にそのような意志作用をもたないしそのようなことをなすこともない知的障害者を比較したときに,どちらが家族を不幸にしているのかというなら,前者であることは明白であると僕は思います。つまり,知的障害者は確かに知的な障害があるがゆえに家族を不幸にするということがあり得ることを僕は肯定しますが,そうでない人は知的な障害がないがゆえに知的障害者であれば絶対にそうならないような仕方で家族を不幸にするということがあり得るのです。そして現実に家族を不幸にしているのは,知的障害者であるよりは,知的障害をもっていない人の方が,割合としていえばずっと多いだろうと僕は思います。
とはいえ制度は制度なので対応は必要です。
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