スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

中島みゆき&針の入手

2013-04-15 18:46:18 | 歌・小説
 僕は自らの不注意で頭部を裂傷したのをきっかけに坊主にし,それ以降は髪を自分で刈ったり切ったりしています。これを自傷行為であると指摘したのは死んだでした。本当にその指摘が正しいのかどうかは分かりません。ただ,僕の精神のうちに,自分を傷つけたいという衝動が発生することがあるのは事実です。自殺の衝動などはその最たるものといえるでしょう。
 自らの失敗に限らず,たとえ自分の力ではどうにもならないことであったとはしても,何らかの原因で精神的に落ち込んでしまうということは,僕にもあります。というか,こうしたことは人間であればだれにでもあるというべきでしょう。父の最期などはそうした一例ですし,僕にとってはそれを迎える前に,横行結腸癌がほぼ全身に転移しているということを自分の口で告知したときの方が,精神的には辛い思いが強くありました。
 精神の沈みがごく軽微なものであれば,時間の経過とともに自然に消失していきます。したがってそうした場合には何らかの手立てを講じるという必要はありません。しかしそれがあまりに重度なものであった場合,これは自分で回復させなければなりません。流行のことばでいえば,精神を癒す必要が出てきます。僕の場合,それはある種のカタルシスを得ることで達成されるのです。
 僕にはその決定打となり得る方法がひとつあります。それが中島みゆきの歌を聞くことなのです。もちろんどんな歌でもいいというわけではありませんが,彼女のある種の歌は,確かに僕に精神的カタルシスを与えてくれるのです。
                         
 基本的に聞くのは夜です。部屋を真暗にして聞きます。ときに,ただ聞くだけではなく,口ずさむという場合もあります。なぜそれでカタルシスを得ることができるのかは僕にもよく分かりません。しかしそれは分からなくてもよいのです。重要なのは精神的に立ち直ることができるということなのであって,実際にそれができるということを,僕自身はよく知っているからです。

 僕が出してほしかったのは注射針の処方箋ですから,その旨をU先生に告げました。前回の失敗の取り返しのときもそうでしたが,注射針だけの処方箋を出すということは不可能とのこと。これは僕が予想していた通りです。したがって,インスリンも処方しなければなりません。インスリンは在庫が十分にありましたから不要ではありますが,次の診察のときに減らしてもらえばよいだけのことです。僕の場合はヒューマログの方を多く使いますから,そちらの方を1本だけ処方してもらいました。処方箋はパソコンからプリントアウトして出すものですが,処置室にもパソコンはありまして,U先生はそれを目の前に僕と話していましたから,何も手間取ることはありませんでした。
 これで目的は達成。診療費は210円で,これは予想外。前回はこの10倍以上の診療費だったからです。前回は初診扱いの当直の先生の診察であったのに対して,この日はU先生による処方ということでおそらく安くなったものではないかと思います。その支払いを済ませて病院の建物から出ますと,うまい具合に敷地内を経由して根岸駅方面に向うバスが来ました。実は病院のバス停は降車用と乗車用が分かれていまして,降車用が建物の入口のすぐ近くであるのに対して,乗車用は病院の敷地の出口のほど近く。そのために少し走らなければなりませんでしたが,そのバスに飛び乗ることができました。
 薬局は根岸駅の近くにあります。そこで処方箋を薬剤師に渡しますと,この日はインスリンの在庫がないとのこと。僕としてはインスリンは不要で針さえあればいいわけですから,針について尋ねてみますと,それはあるという答えでした。なのでこの日は針だけを受け取り,インスリンについては,22日の診察の帰りに受け取るという手筈にして家に戻りました。帰宅したのが10時45分頃のことでしたから,予想以上に短時間ですべての用事をこなすことができました。
                          
 翌4月6日の土曜日にと妹は美容院へ。さらに7日の日曜日は妹のピアノレッスンがあり,この日は午後5時半という予定通りの開始となっています。
 だいぶ現状の日時に近付いてきましたので,今回の糖尿病共生記はとりあえずここまでとしておき,これ以降のことは次回からにします。明日からはまた『エチカ』に関する考察です。
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皐月賞&呼び出し

2013-04-14 18:45:47 | 中央競馬
 クラシック三冠の初戦となる第73回皐月賞
 前走で折り合いがつかず,暴走したメイケイペガスターが注文をつけて下げた以外は一斉の発馬。先手を奪ったのはコパノリチャード。クリノヒマラヤオーが続き,ミヤジタイガとラブリーデイ。コディーノは宥めつつ内を追走し,外にはクラウンレガーロ。ロゴタイプとやや掛かっていたエピファネイアが間にサトノネプチューンを挟んでその後ろに位置しました。前半の1000mは58秒0で,最近の日本のレースの傾向からすれば,超ハイペースといえそうです。
 4コーナーで逃げるコパノリチャードのすぐ外にクラウンレガーロ。その外にエピファネイアが追い,さらに外にロゴタイプという形で雁行。外の2頭が内の2頭を交わして叩き合いましたが,わりと楽にロゴタイプが前に出て,半馬身差をつけて優勝。エピファネイアが2着。エピファネイアとクラウンレガーロの間を割ったコディーノが一瞬は伸び掛かったもののすぐに止まって1馬身4分の1の差で3着。大外を追い込んで4着のカミノタサハラまで,実力上位と考えていた馬たちが占める順当な結果になりました。
 優勝したロゴタイプは暮れの朝日杯フューチュリティステークスに続き大レース2勝目。前走はトライアルを勝っていて,順調に冬を越していました。2着馬,3着馬と,純粋な脚力だけでいえばそんなに大きな差はないものと思いますが,レースで難なく折り合えるのはその2頭にはない長所で,それがこの優勝に結び付いたといえそうです。距離延長がプラスになるとは思えませんが,この長所を生かせれば,克服することは可能でしょう。レコードタイムになりましたが,これは馬場状態の良さと,ハイペースの産物だったと思われます。父は2003年と2007年の中山記念,2003年と2005年のマイラーズカップを勝ったローエングリン。祖母は1993年にローズステークスを勝ったスターバレリーナ
 騎乗したイタリアのミルコ・デムーロ騎手は朝日杯フューチュリティステークス以来の日本での大レース制覇。第63回をネオユニヴァースで,第64回をダイワメジャーで連覇していて,9年ぶりの皐月賞3勝目。管理している田中剛調教師はやはり朝日杯フューチュリティステークス以来の大レース制覇で,皐月賞はこれが初出走でした。

 問診票への記入が不要であったことは失敗の取り返しをしたときと同じで,僕も事前に予期していました。ただ,そのときは受付の横のボードに受診票の番号が点灯し,診察室へと招かれたのですから,この点はそのときとは違っていたということになります。前回は待ち時間というものがほとんどなく,今回もそうではないかと思っていましたが,こればかりは行ってみなければ分かりません。なのでこの日も,もしも待ち時間を要することになった場合に備え,読書用の本を携えてはいました。蓮実重彦の『夏目漱石論』です。待機しろと命じられましたから,受付の前の椅子に座り,読み始めたのですが,ほとんど読み進める間もなく,僕の名前が呼ばれました。
                         
 僕を呼んだのはU先生自身でした。つまり出勤していたということです。ただ,U先生が現れた方向は,僕にとっては意外でした。これは前にもいいましたが,以前の総合内科の診察室というのは,受付を中央にして左右に3室ずつが並ぶという構造でした。僕は受付を正面にみれば,右側の中央がいつもの診察室でしたから,U先生が出てくるとすれば,その診察室に通じる右側の通路の筈でした。しかしこの日は,反対側の左側の通路から登場して僕を呼んだのです。
 U先生自身が出てきたということからも分かると思いますが,U先生は出勤はしていましたが,診察はしていなかったのです。もちろん医師の仕事というのは外来の診察に限られるわけではありませんから,このことはそんなにびっくりするようなことではありません。ただ,この都合で,診察室を使用することはできませんでした。そこでU先生は僕を最奥の処置室へと招き入れました。この処置室には,左右どちら側の通路からでも入室できたのです。iPro2レコーダー装着のために初めてここに入ったとき,僕はこの部屋の広さには驚いたのですが,このことからも処置室というのが広い部屋であるということはお分かりいただけるかと思います。
 処方箋を出してもらいたいということはU先生はすでに理解していました。ただ,何の処方箋であるかは知りませんでした。もっとも僕はそれについては何も言っていませんでしたから,知らなくて当然です。
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農林水産省賞典中山グランドジャンプ&内分泌科

2013-04-13 19:04:19 | 中央競馬
 アイルランドから1頭が遠征してきた第15回中山グランドジャンプ
 出遅れたゴールデンガッツが最初の障害で落馬。これに巻き込まれる形でカピターノが競走中止。波乱の幕開けでした。先頭でレースを引っ張ったのはシゲルジュウヤク。しかし落伍する馬はなく,ほとんど集団でのレースに終始しました。
 勝負所からシゲルジュウヤクを追い掛けていったのはハクサン。3コーナーを過ぎると並ぶところまでいきましたが,そこで一杯に。ここから外を回って追撃してきたのがブラックステアマウンテン。こちらは直線の入口でシゲルジュウヤクに並び掛け,最後の障害の手前で僅かに前に出て先頭に。競り落とされる形になったシゲルジュウヤクは力尽き,抜け出したブラックステアマウンテンに迫ってきたのはリキアイクロフネ。しかし先に抜け出したブラックステアマウンテンが半馬身だけ凌いで優勝。リキアイクロフネが2着。シゲルジュウヤクが1馬身4分の3の差で3着。
 優勝したアイルランドのブラックステアマウンテンはアイルランドでGⅠ2勝。今回が初来日ですので日本の大レースは当然ながら初勝利。早くに来日し,2着馬の勝った先月の前哨戦に出走。そのレースはペースにまったくついていかれずに大敗。距離が伸びて追走が楽になったこと,わりといい馬場でしたがさほどのタイムにならなかったこと,そして馬群が固まってのレースになったことなど,都合よく進んだ面も大きかったとは思います。ただ,やはり最も大きかったのは,前哨戦を叩くことによって,日本のレースに慣れることができたという点ではなかったでしょうか。
 騎乗したのはルビー・ウォルシュ騎手で管理しているのはウィリアム・マリンズ調教師。日本での大レースは初勝利です。

 総合内科がいくつかの科に区分され,そのうちの内分泌科が,僕が診療を受けるべき科であったわけです。したがって総合内科という科がなくなり,いくつかの科が新設されたということになりますが,前年度まで総合内科で受診をしていた患者のすべては,おそらく新設されたそれぞれの科に配分されたということだと思います。新設された科がいくつあって,それぞれ何という名称の科であったのかということはこの日は分かりませんでしたが,かつて説明したように,この総合内科を受診していた患者のほとんどは,僕のような糖尿病であるか,透析を含めた腎臓病であるか,そうでなければ膠原病であるかで占められていましたから,少なくともみっつの科には分類されたと考えるのが妥当だと思われます。そのうち糖尿病で受診していた患者は,内分泌科に分類されたと思われますが,内分泌科という名称から類推するならば,内分泌科を受診する患者のすべてが糖尿病患者であるとは限らないかもしれません。
 いずれにしてもこうした事情ですから,診療するべき科の名称に変更があったというだけのことであり,受付なども含めた診察室の場所というのは,前年度までと何ら変わることはありませんでした。ということは受付自体にも何の変わりもなかったということであり,かつて総合内科で受診していた患者のすべてが,それまでと同様の受付を利用するということになります。つまり,内分泌科になったからといって,内分泌科専用の受付窓口が新設されたというわけではありませんでした。科が分類されたのはおそらく病院内の何らかの事情によるもので,一方で受付や診察室に関しては建物の構造上の事情が関係してきますので,これは止むを得ないことだと判断するべきでしょう。
 今までと同じ受付に向い,機械から発行された受診票を事務の方に提出しました。事務の方はその受診票が初診の扱いになっていることを確認し,問診表のようなものを用意しつつ,来院の目的を尋ねましたので,僕は処方箋を出してもらいたい旨を告げました。すると事務の方はそれだけであるということを確認し,問診票は引っ込めまして,番号ではなく名前を呼ぶので,待機するように命じました。
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印象的な将棋⑥-1&金曜の迎え

2013-04-12 18:52:59 | ポカと妙手etc
 が指されたのは1994年8月18,19日。2手目△6二銀からの進展でしたが,羽生三冠の2手目△6二銀の一号局は第7期竜王戦1組出場者決定戦で,3ヶ月ほど前の5月16日に指されたもの。双方が自戦記を書いていて,内容に興味深い点がありますので紹介します。
 初手☗7六歩に☖6二銀。
                         
 この手は2分の考慮で指されています。先手は意表の二手目と評していて,5分の考慮で☗2六歩。心を静める時間があったかもしれません。第1図で最もつまらない手は☗6八銀で,これは後手が飛車先不突き矢倉にできるから。振飛車にするのも面白くなく,咎めにいくなら☗2六歩しかないと判断したようです。これで先手だけが飛車先を交換できるからです。次の☖3ニ金には1分が使われていますが,☗2五歩☖4一玉の2手はノータイムでした。
                         
 後手は2手目の☖6二銀は以前からやりたかった手であったといっていて,中央志向の手と説明しています。先手だけに飛車先を交換されるのは百も承知とのことですから,第2図は事前の想定の範囲だったのでしょう。しかしこの自戦記から類推すると,次の先手の一手は,どうも後手はあまり考えていなかったようなのです。

 この翌日,3月31日はガイドヘルパーを利用しました。この日は杉田ボーリング。ガイドヘルパーとのボーリングは,大抵は杉田です。
 新年度に入って4月5日。この日は金曜日ですので,昨年度までは新たなる支援の迎えの日であったのですが,今年度からはこれを断りまして,が送っていくということになりました。水曜の迎えに関しては昨年の6月に断っていますので,今年度からは月曜日だけ迎えに来てもらい,それ以外は母が送っていくということになったわけです。断った理由については水曜の迎えを断ったのと同じ。そのときもいいましたが,現在は特別の事情がない限り僕が妹を送っていくということはなく,母が送るのですから,母の希望を優先するのは当然です。
 そしてこの日,僕は午前中にみなと赤十字病院へ行きました。次の通院は今月の22日でしたが,その日までのインスリンの注射針が足りなくなるということがはっきりとしたからです。前回の失敗の取り返しの経験から,そんなに時間が掛かることはないだろうと予期していましたが,この日も午後は長者町に出ることになっていましたので,早いにこしたことはありません。現状のバスの運行から,みなと赤十字病院の敷地の中まで入っていく最も早いバスは,根岸駅を9時15分に出るもの。なのでそのバスを利用しました。
 まず最初に,普段の通院のときと同じように,病院全体の受付で,保険証の確認をしました。するとその時点で,担当された事務の方から,今日は予約が入っていないと言われました。そこで,僕は処方箋を出してもらいたいという旨を伝えたのです。
 今まで,僕が通院していたのは総合内科です。ところがその事務の方によると,今年度から,総合内科がいくつかの診療科に区分されたとのこと。したがって僕は何科に行けばよいのかが分からなかったのですが,その事務の方とのやり取りで,どうやら内分泌科というところへ行けばよいと判明しました。処方箋を出してもらうための診察が初診の扱いになるということは前回と同様。ただし,総合内科の初診というのはカードでは対応できず,別の窓口に赴かねばならなかったのですが,内分泌科はカードで対応可能とのこと。よって診察券を機械に通し,内分泌科の受付に向いました。
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ハンセンとサンマルチノ&墓参り

2013-04-11 18:58:41 | NOAH
 馬場は1999年1月31日に死にました。その後,5月2日に東京ドームで引退試合が行われました。もちろん死後の引退試合ですから,セレモニー色の強いものでした。
                       
 試合形式はタッグマッチ。馬場のパートナーを務めたのは白覆面の魔王ことザ・デストロイヤー。反対側のコーナー,つまり名目上の対戦相手には荒法師ことジーン・キニスキーと人間発電所が選ばれました。
 この3人の選手が入場するとき,全日本プロレスの選手たちがリングサイドに整列して出迎えました。これは所属レスラーだけでなく,当時の全日本プロレスにレギュラー参戦していた外国人レスラーも含まれていました。馬場が全日本プロレスをひとつのファミリーとみなすとき,広い意味では参戦しているすべての選手が含まれていたわけで,いわば大家族が総出で出迎えたということになります。
 このとき,サンマルチノがリングに上がろうかというとき,何か声を掛けた選手がいました。それが不沈艦でした。日本テレビの中継シーンにばっちりと映っていたので僕はそのことに気付いたのですが,瞬間的に思わず声を上げてしまったシーンでした。
 首折りというアクシデントが生じた後,ハンセンとサンマルチノとの関係がどんなものであったのか,僕は知りません。ただ,可能性としてだけいえば,顔を合わせたことすらなかったかもしれないのです。馬場はそのふたりと,ライバルとして戦い,またタッグを組み,友情を結んだ選手でした。
 このシーンはただ映像として流されただけで,そのままスルーされてしまいました。あのとき,実況アナウンサーや解説者が,サンマルチノにハンセンが声を掛けたという事実に,何の言及もしなかったことを,僕はとても残念に思っています。ふたりの間の経緯を知らないファンの方が,ずっと多い時代になっていたと思うからです。

 家を出たのは11時少し前のことでした。昨秋の彼岸の墓参りのときは,家からタクシーで日野公園墓地まで行きました。僕はこの日も同じようにするつもりでした。しかしが,一旦はバスで屏風浦まで出て,そこからタクシーに乗っていく方がいいのではないかと言いまして,僕も同意してそのようにしました。日野公園墓地には家よりも屏風浦の方がずっと近いですから,タクシー代が節約できます。ただ,このことはこのような行き方をする結果として生じることであり,主目的ではありません。母が重視していたのは,タクシーの乗りやすさです。家の近くで空車のタクシーを捕まえるのは,実は意外と大変なのです。屏風浦まではバスで1本。バスは概ね時刻表の通りに運行しますから,それに合わせて家を出ていけばよいことになります。そして屏風浦の駅にはタクシー乗り場がありますので,そこからならばタクシーには簡単に乗ることができます。ということで,この方法を採用することにしました。実際にやってみると,明らかにこの方が優れていると思えましたので,今後も墓参りの際にはこの方法を用いることになるでしょう。秋は帰りにファミリーレストランで外食しましたが,この日はどこにも寄らずに帰宅しました。これは日野公園墓地から自宅の近くまでタクシーで帰ったもの。墓地の敷地の中で空車のタクシーを捕まえることができました。帰ったのは正午過ぎ。先述したように僕はこの日の午後は長者町でした。
 この週末も妹には何の予定も入っていませんでした。体調の方はもう完全に回復していて,問題はありませんでしたが,ゆっくりと休養することができたのはよかったと思います。
 予定があったのはその翌週末。これは月末ですが,3月30日の土曜日がピアノレッスン。この日は午後5時半という時間が予定されていました。レッスンを再開するようになってから,必ず土曜か日曜になっていますので,もっと早い時間に設定されていましたが,以前は平日にレッスンをするというケースもままありました。その場合は妹が作業所から帰った後でのレッスンということになりますので,こういう時間もあったのです。ただし,この日も先生から連絡があり,午後5時に早まっています。
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東京スプリント&妹の発熱

2013-04-10 20:33:07 | 地方競馬
 伏兵的存在が多く,馬券ではやや悩まされることになった第24回東京スプリント
 逃げてレースをしている馬が多くいましたが,鞭を入れてクリスタルボーイの先導になりました。スターボード,ナイキマドリード,ギオンゴールドまでは差がなく続き,その後ろに控えたのがティアップワイルドとラブミーチャン。セレスハントとセイクリムズンがさらにその後ろという隊列になりました。前半の600mは34秒7のハイペース。
 3コーナーを過ぎたところからラブミーチャンが手応えよく外を進出。そのまま前をいっていた各馬を飲み込み,直線に入ると先頭に。馬場の中ほどから馬群を割って伸びてきたセレスハントは前に届く脚がなく,これを外からセイクリムズンが交わして前を追い,追い詰めはしたものの届かず,半馬身差でラブミーチャンの優勝。セイクリムズンが2着。1馬身差の3着にセレスハント。
 優勝したラブミーチャンは前々走でオッズパークグランプリを勝っていて,これが15勝目。重賞は昨年10月の東京盃以来で4勝目。1400mでも対応はしていますが,1200mの方がよく,とくに大井コースは得意のようで,ここは優勝候補の1頭と考えていました。相手も強いですから最後は差を詰められましたが,楽々と進出できたあたりで,勝負を決めた感があります。この距離ならば重賞でも活躍できそうですし,地方馬同士ならまだまだ勝ち星を増やしていくことになるでしょう。父はサウスヴィグラス
 騎乗したのは3月からJRAに移籍した戸崎圭太騎手。管理しているのは笠松の柳江仁調教師。共に東京スプリント初勝利。

 翌日,3月19日の火曜は妹は出勤しました。ただ,この日は昼に食事会というのが予定されていて,前々から妹はそれを楽しみにしていましたので,多少は無理をするところがあったかもしれません。帰って夕食は普通に食べたのですが,その後で嘔吐してしまいました。
 妹の嘔吐というのは別に珍しいことではなく,それ自体は驚くに値しません。ただ,このときに熱を測ってみると,37.7℃でした。実は妹は平熱というのが低く,普段であれば36℃を超えていることがまずありません。それがこの体温ですから,妹にとってみればかなりの高熱が出ていたことになります。この日はそのまま布団に入りました。20日は水曜ですが,春分の日で休日。この日も食事やトイレのためにベッドを出る以外はほとんど1日中横になっていました。さらに21日の木曜日も作業所を休み,横になっている時間がほとんどだったのですが,どうやらこれで回復できたようです。22日の金曜日には出勤することができました。
 新たなる支援の家までの迎えは,金曜日は継続していましたが,この日はが送っていきました。というのも前日までの状況からして,この日に出勤することが可能であるかどうかが分からなかったからです。実際に出勤することを決めたのはこの日の朝の妹の様子を見てから。妹自身にもその意欲がありましたので,出勤することを決定したもの。もちろんそれからでも迎えを頼むこと自体はできたでしょうが,作業所には作業所の予定というものがあり,なるべくなら事前に迎えに行くか行かないかは把握しておきたいところであるのが当然です。よって出勤を決めた後,作業所の方には電話は入れましたが,迎えは断りまして,母が送っていくことにしたのです。
 彼岸でしたから,本当はの墓参りに行っておきたいところでした。しかし妹の状態が状態でしたので,まだ行くことができていなかったのです。僕はこの22日というのは,午後からは長者町に出ることになっていましたが,午前中はオフでした。母の方から,妹を送って帰ったら,その後で墓参りに行きたいという話がありましたので,一緒に行くことにしました。
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童貞&足つぼとストレッチ

2013-04-09 19:06:48 | 歌・小説
 『三四郎』の冒頭のプロットを,三四郎は童貞であると読解するのは,僕に特有のことではありません。石原千秋は「イニシエーションの街」の中で同じような読解をしています。
                         
 ここでひとつ注意しなければならないことがあります。三四郎は第五高等学校を卒業して帝国大学入学のために上京します。ここから現在の僕たちは,三四郎を18歳とイメージしがちです。しかしこの時代の学制は現在とは違っていて,このときの三四郎は23歳です。
                         
 石原は23歳の男が童貞という設定自体,異様で滑稽であったに違いないと書いています。ただしその根拠は示されていません。僕もこの当時の若者の性事情がどのようなものであったかはいっかな分かりません。ただ,石原のように考えなければ,このプロットの挿入の意味を把握し難くなるのは事実だと思います。
                         
 高等学校入学のためですから年齢は異なりますが,三四郎と同じように田舎から上京した人物に,『こころ』の先生がいます。はっきりと述べているわけではありませんが,遺書の内容から,先生は16歳か17歳のときには性的には目覚めていたと理解できます。一方で先生を慕う私には,女というものは妻以外に知らないとも言っています。これをどう解釈するかは難しいですが,先生もまたお嬢さんと結婚するまで童貞であったと考えることは可能です。
 一方,先生と同郷のKに関していうならば,Kはおそらく童貞であったでしょう。もっといえば,先生が遺書で告白している性の目覚めすら経験していなかったかもしれません。少なくとも先生はKをそういう人物として認識していたと僕は考えています。たぶんこの認識は,先生とKとの関係において,重要な意味を有していると思います。
 先生を慕う私は,交際らしい交際を女と結んだことがなかったといっていて,これもおそらく童貞という設定です。つまり童貞という設定は,三四郎に固有のものとして理解することはできないのかもしれません。ただ,三四郎のプロットに,何か特別な意図があったということは,確かなことなのではないかと思います。

 3月6日の水曜は指定歯科となっているみなと赤十字病院での予約が妹に入っていました。予約は午後3時で,いつものようにが同行しました。この日はクリーニングだけをしたようです。担当していた主治医が辞めるそうで,次回からは変わるという話でした。僕はこの日は川崎に出ていました。
 9日は土曜出勤。この日は作業所からそう遠くない場所にある三渓園を散策。ただ,こういう散策のような行事が妹にとってどれほど楽しいことなのかは微妙です。ある意味では疲れるだけのことかもしれません。翌日は美容院に行きました。
 翌週,3月12日からは2泊3日のショートステイ。これは磯子区内の施設。面接をした港南区内の施設に関しては,利用できるということになったのですが,実際の利用はまだで,来月に予定が入っています。
 2泊3日でしたので,帰ってきたのが14日の木曜日。その週末は久しぶりに何の予定も入っていなかったのですが,体調を崩しまして,17日の日曜の昼ごろから寝込みました。そして翌18日の月曜日は作業所を休みました。こうしたことは最終的には母や僕が決定することではありますが,本人の意志というのを最重要視します。
 母が退院してから,整体に通うようになったということは以前に書いたことがあります。これは現在も継続しているのですが,その後,足つぼマッサージとストレッチにも通うようになりました。これは概ね月に2回ずつで,事情が許す限り,月曜と火曜の午後に予約を入れています。それぞれが月に2回ですと合計で6回。一月の月曜と火曜の数を合計すれば6回以上には必ずなりますので,常に月曜と火曜の午後には予約が入っている状況とはならないのですが,予約が入っていないのは大概が月末に集中しています。そしてこの18日の月曜には,足つぼの予約が入れてありました。しかし妹が休むとなると,ひとりにしておくわけにはいきません。場合によってはキャンセルも考えてはいたようですが,僕が打診を受けまして,待機することにしました。
 これらみっつのうち,ストレッチが最も時間が掛かり,帰るのが4時を回ることもあるのですが,足つぼはそれほどではなく,3時過ぎには帰ってきました。僕はその後で,桜木町に出て予定をこなしました。
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桜花賞・海老澤清杯&ブリッジの確認

2013-04-08 18:43:25 | 競輪
 大雨と強風の影響を受けることになった川崎記念は昨日が決勝。並びは菊地-成田ー大槻の北日本,新田-斎藤ー稲村で東日本,脇本-浅井-小川の西日本。
 浅井がスタートを取りましたので,脇本の前受けになると思いきや,外を上昇した新田に位置を譲り,前受けは新田。さらに中団にも菊地を入れたので,4番手に菊地,7番手から脇本という周回になりました。
 脇本は残り2周のホームから上昇の構え。菊地が後ろを見ながらうまく呼応し,バックでは先に出て新田を叩いて前を斬ると,打鐘から発進した脇本の番手に飛びつき,競り込みました。ホームでは菊地が番手を奪い,浅井は大槻の後ろには入れましたが万事休す。菊地は脇本との車間を空けていましたがなかなか発進できず,直線手前から成田が踏み込むと,鋭い伸び脚で差し切って優勝。逃げ粘った脇本が半車輪差で2着。成田マークの大槻が1車輪差の3着。
                         
 優勝した福島の成田和也選手は昨年3月の日本選手権競輪以来のグレードレース優勝。記念競輪は同着での優勝となった一昨年8月の富山記念以来の3勝目。菊地がうまく中団を確保し,浅井から番手を奪った北日本の作戦の勝利。菊地が出ていけないとみて早めの踏み込みになったものと思いますが,もう少し様子を見ていれば届かなかった可能性もあり,的確な判断だったということでしょう。追い込み選手なので,展開に左右されるのは仕方がありませんが,もう少し活躍してほしいし,それが可能な選手だと思っています。

 この時点ですでに沁みる感覚というのは消失していました。それ以外の点も含めて,僕には何の憂いもありませんでした。一方,I先生が確認したところでも,新しいブリッジにこれといった問題点は見当たらないとのこと。つまり僕の歯に十全にフィットし,その機能を果たしているということになります。
 この日の通院の目的はこれで達成されました。ですからこれでこの日の治療は終了でよかったのですが,ついでだからということで,通常の歯科検診の際に施しているクリーニングもすることになりました。もっとも,僕は3ヶ月に1度という頻度でI歯科に通って歯科検診をしていまして,前回の定期検診というのが前年の暮れであったのですから,このクリーニングは僕が事前に予期していたものでしたし,また,希望していたものでもありました。どう考えてもこの日に済ませてしまった方が合理的であったからです。
 この日は今までずっと僕を担当していた歯科助手ではなく,新しい歯科助手によって行われました。この助手の方の手も温かく感じられ,歯科助手の配慮というのはI歯科では徹底されているようです。なお,助手が変わったことによって手順に変化が生じました。今までは下の歯をクリーニングしてから上の歯という順序だったのですが,この方は先に上の歯からでした。順番はどうあれやることは一緒ですからどうということはありません。ブリッジの確認には時間が掛かりませんでしたから,この日に要した時間のほとんどはクリーニングのためのもの。それでも家に帰ったのは10時半を回っていました。
 この週末は3月3日の日曜日に妹のピアノレッスンがありました。この日も午後1時からの予定であったのですが,当日に先生から連絡がありまして,午後2時からに変更となりました。レッスンを再開してからは当日の時間変更は初めてであったと思いますが,以前はこうしたことはよくありましたので,とくに驚くに値するようなことではありません。妹は1日のうちに複数の予定を入れるということは絶対にといっていいほどありませんから,このような急な時間変更に対応することには問題も生じないのです。
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桜花賞&面接

2013-04-07 18:52:03 | 中央競馬
 中央競馬も今日からクラシックが開幕。まずは第73回桜花賞。丸山元気騎手が落馬負傷のため,アユサンはクリスチャン・デムーロ騎手に騎手変更。
 ティズトレメンダスとトーセンソレイユが出負け。サマリーズが逃げたのは事前に予期できた展開のひとつ。外から上がったクロフネサプライズが2番手となり,クラウンロゼ,ウインプリメーラ,サウンドリアーナ,ジーニマジックまでが先行集団を形成。ローブティサージュとコレクターアイテムが好位。中団はストークアンドレイ,アユサン,メイショウマンボの3頭。シーブリーズライフ,プリンセスジャック,追い上げたトーセンソレイユまでが差がなく続き,後方4頭の最も前に位置したのがレッドオーヴァル。前半の800mは46秒9で,ミドルペースの範疇ではあるでしょう。
 サマリーズが早々に失速したので4コーナーではクロフネサプライズが先頭に。これを目標に馬群を割って外に出てきたのがアユサンで,大外を伸びたのがレッドオーヴァル。この2頭が叩き合いながらクロフネサプライズを捕えてマッチレース。テレビで観戦していた限り,一旦はレッドオーヴァルが出たように見えたのですが,アユサンも盛り返し,最後はクビ差で制して優勝。レッドオーヴァルが2着。さらに外を伸びたプリセスジャックがクロフネサプライズをゴール前で捕えて2馬身半差の3着。
 優勝したアユサンは新馬勝ち直後の重賞は2着。これは内容的には勝ち馬以上のもの。前走のトライアルは3着でしたが,これはスローペースに泣かされた面があり,ここでもチャンスはあるだろうと思っていました。今日は体重が大きく減っていたのですが,乾坤一擲の仕上げだったのかもしれません。ただ,こうした場合には反動が心配されます。父はディープインパクト
 騎乗したイタリアのクリスチャン・デムーロ騎手は日本での,また日本馬に騎乗しての,初の大レース制覇。管理しているのは手塚貴久調教師で,一昨年の朝日杯フューチュリティステークス以来の大レース制覇。桜花賞は初勝利。

 この2日後,2月20日の水曜日に,妹にある面接がありました。これはショートステイに関係するものです。
 現在,妹が利用しているショートステイの施設は,磯子区内にひとつ,南区内にひとつの2か所。それに新しい施設を加えてはどうかという提案が作業所からありました。ショートステイは原則的に2泊3日で月に1度の利用。その利用頻度を増加させる予定はありませんでしたから,単にそれを消化するということだけを考えれば,2か所あれば十分であり,新しい施設は必要ありません。ただ,妹の経験という観点からしてみれば,より多くの施設を利用する方が好ましいのです。なのでさらに1か所,ショートステイ先を増やすというのは,悪くない話でした。
 知的障害者には集団での生活に向き不向きというのがありますから,こういう場合には面接が必須。著しく協調性に欠けるからといって,それだけで利用を断られるということは必ずしもありません。先方もいってみればプロですから,対処の仕様はあるからです。ただ,事前に利用者がどういう性格であるかは把握しておかなければならず,そのための面接であったということになります。
 この施設は港南区内にありますが,僕の家から行くならば,JRで洋光台まで出て,そこからバスということになります。面接には作業所の方も立ち会うということで,妹は作業所から連れていってもらえるとのこと。は電車とバスを乗り継いで向うつもりであったようですが,妹を連れていく途中で母を迎えてもよいという話があったそうで,お願いしたようです。僕はこの日は川崎まで出ていまして,具体的にどのような面接が行われたのかということに関しては聞きそびれてしまいました。
 週末,24日の日曜日はガイドヘルパーを利用。この日はカラオケでした。ガイドヘルパーを利用してのカラオケの場合,妹が卒業した養護学校,バザーを主催している学校ですが,この近辺のカラオケボックスを利用しているようです。
 月が変わって3月1日。この金曜日が新しいブリッジの確認のためにI歯科へ通院する日。午後は本牧に出る日でしたので,9時半と,この日も早めに予約を入れてもらっていました。
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馬場の右手&返却

2013-04-06 18:37:59 | NOAH
 ハンセンの乱入があった試合後の乱闘でハンセンの流血が生じたことは,完全なアクシデントであったというのが僕の理解。その根拠をひとつあげれば,この流血は馬場の脳天唐竹割りで発生しました。馬場はほとんどの試合でこの技を出していたと思いますが,それで対戦相手が流血してしまったというシーンは僕には覚えがないからです。したがって,仮にギミックとしてハンセンが流血するのであれば,もっとほかの手段を採用する筈だからです。
 当たり所が悪かったために出血してしまったのでしょうが,馬場はチョップの威力を増大させるために,特訓を施していました。あまり知られていないことだと思うのですが,その成果で馬場の右手はとても堅くなっていて,それもこのアクシデントの要因のひとつであったのだろうと思います。
                         
 特訓の内容については馬場が『王道十六文』の中で明かしています。これは最初の渡米の前に力道山から受けたもの。馬場が右手をテーブルに載せて,それを力道山が木槌で叩くというもの。やっているうちに手が腫れあがってきて,そのうちに皮膚が破れて血と水が出てくるそうです。しかし特訓というのはここからが本番。さらに同じように続けていくと,最終的には破れた皮膚が固まり,それがタコのようになって,堅い手が出来上がるのだそうです。
 これは渡米後に,チョップを武器にするために力道山によって施されたもの。馬場は後にそのチョップを脳天に打ち下ろしたらどうかということを力道山に尋ねたそうですが,力道山はそんなことをすると相手が死にかねないといって許さなかったそうです。実際には馬場は,少なくとも僕のプロレスキャリアが始まった時点では,先述したようにこの脳天唐竹割りをほとんどの試合で出していました。しかしこの事情から察すると,馬場はいくらか加減して打っていたのではないでしょうか。もしかしたら馬場が最も本気で打った脳天唐竹割りというのが,このハンセンとの乱闘のときだったのではないかと思えるのです。

 時間的には前後しますが,この日はもうひとつ,しておかなければならないことがありました。
 僕は入院中から血糖値測定を自分の手で行うようになり,それと同時に用具も自分で管理するようになりました。このようにいいますと,あたかもこの用具が僕の所有物であるかのようですが,実際にはそうではありません。形式的にいいますと,みなと赤十字病院から借り受けているものなのです。したがって血糖値測定器具一式がよりコンパクトな新しいものになったからには,それ以前のもの,といってもこれは一式のうちの耐久品である測定器と注射器だけですが,これらは返却する必要がありました。それで,これはバッグごとU先生に返したのです。
                         
 その後,診察室を出ての帰り際に,技師に呼び止められました。注射器と注射針というのは一体のものであるけれども,古い注射器に新しい注射針を挿入するということは可能で,もしもまだ使う気があるならば,注射器の方は返却しなくてもよいという意味のことを言われました。前にもいったように,針の着脱だけを考えれば,前の注射器の方が利便性は高かったと僕は思っていましたから迷いはしたのですが,この申し出は断りました。すでに使い続けていましたから,新しい注射器の方にももう慣れていましたし,何より,古い注射器は大きいですからせっかくコンパクトになったバッグに収めることができません。つまりこの注射器だけを別に管理しておく必要があり,それはそれで面倒だったからです。
                         
 新しい注射器の直方体という形状が,古い円柱型の注射器の形状に比べて優っている点があるとするならば,それは置いたときに転がることがないという点だと思います。転がってどこかにいってしまうような大きさのものではありませんから,仮に転がったとしてそれで困るということはありませんが,おそらくそれを避けるために形状を変化させたのだろうと考えられます。というか,そう考えなければただ不便になっただけで,形状変更の理由が考えられないのです。とくに小さくなっていますから,転がりにくさというのを追求する理由というのは,それまでの大きなものと比べれば,増しているということだけは確かだと思います。
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印象的な将棋⑤&注射針

2013-04-05 18:47:01 | ポカと妙手etc
 今回は第35期王位戦七番勝負第四局です。
 第1図は相居飛車戦ですが,ありそうで滅多にない局面。先手だけが飛車先を交換しているからです。これは後手の2手目が△6二銀だったため。羽生三冠はこの当時,何局か指しています。
                         
 第1図の△5四歩は,昼食休憩を挟んで30分の考慮で指された手。ここで先手は長考に沈み,1時間37分で▲2二角成と指しました。
 こうして角を交換するのは手損になります。まして先手は7七に角を上がっていますから,部分的には2手も損することになります。郷田九段は現在でも一手損角換りは指さないほど棋理を重視しますから,かなりの決断であったといえるでしょう。これに対して後手は実に2時間44分も考え,そのまま封じ手にしてしまいました。
 封じ手はもちろん△2二同銀なのですが,初日の午後に2手しか進まないというのは異様。実はこの将棋はこの角交換が好手で,63手という短手数で先手の勝ちになりました。そのことも相まって,この将棋は印象に残っているのです。

 時間的にはこの日も順調。いつものように処方箋が出ましたので,途中で薬局に寄ってから帰宅したのですが,午後4時15分くらいのことでした。
 この処方箋なのですが,僕は受け取るだけで中身は読みません。おおよそ2ヶ月分のインスリンと注射針の処方箋で,さすがにその3種類のうちに処方されてないものがあるということであれば即座に分かりますが,処方された数で足りるのかどうかということはすぐには計算できないからです。つまり見てもその場では合っているかどうかが分からないのですから,読んでも仕方がないのです。なので,実際に薬局で処方されたときに初めて,どれくらいの数が処方されているのかを僕は知るということになります。
                         
 このとき,注射針を10袋処方されました。以前に説明しましたが,これは一箱に5袋が封入されていますので,2箱を処方されたということになります。その瞬間にこれは少ないのではないかと思いました。注射針は多いときはこの倍ほど処方されることがありますし,そこまでいかないとしても15袋くらいの処方はあったからです。インスリンはやや多めに処方されますので,在庫はありますが,注射針はそこまで余分に処方されていませんから,とくにいつもより多めの在庫があったというわけでもありませんでした。
 ただ,実際に処方箋がそうなっているのですから仕方がありません。まだM先生が主治医だった頃,僕が注射針の在庫を伝え間違えるという失敗をしたときに,この注射針は処方箋がなくては入手できないということを知りましたので,たとえ足りないのだとしてももうこの場では手遅れです。ただ,その失敗の取り返しで,足りなくなった場合にはどうすればよいのかということもこのときには分かっていました。ですから実際に使っていって,本当に足りなくなるようであれば,また処方箋を出してもらいに病院まで行けばすむことです。ということでこの後しばらくは,とくに何の手立ても講じずにいました。
 ところで,これは今のU先生も含めて主治医が変わってもずっと一貫しているのですが,インスリンは余分に処方されますが針はあまり余裕がありません。しかし針がなければインスリンは注射できないのですから,この処方に意味があるのかどうか疑問です。
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マイナビ女子オープン&3点の異常

2013-04-04 18:51:25 | 将棋
 現女流棋界の頂上決戦といっていいであろう第6期マイナビ女子オープンは昨日が第一局。対戦成績は上田初美女王が2勝,里見香奈女流名人が8勝。
 振駒で里見名人が先手に。上田女王は居飛車を選択し,先手の三間飛車石田流に左美濃から銀冠。先手も銀冠に構えて持久戦となりました。
                         
 後手が歩を垂らしたところ。先手は相手にせず,▲9七角と端に転換。歩を垂らしてしまったので△6四銀と受けるほかありません。ここで▲4四歩と打ち,△同金▲同銀△同角とまず銀を捌きました。さらに▲5三桂成と空成り。△同角に▲5四歩と突き出し,△4四角にまた▲5三歩成の空成り。△4六歩▲4八金引の後,△5三角▲同飛成△同銀▲同角成で,すべての攻め駒がものの見事に捌けました。
                         
 こうなっては先手の優位は動かないです。先手の捌きを封じることは難しく,後手としてはどこかで攻め合うほかなかったのですが,そういう手段もなかったとすれば,第1図の時点ですでに先手がうまくやっていたということでしょう。
 里見名人が先勝。第二局は17日です。

 前回の健康診断の結果が出たときには,中性脂肪が正常範囲の下限値を下回っていたのですが,それはこの日も同様でした。ただ,数値だけでいうなら,10月が36㎎/㎗であったのに対し,この日は45㎎/㎗でしたから,若干の改善があったということになります。下限値は50㎎/㎗ですから,だいぶ近付いてきました。
 しかしこの日はさらにふたつ,正常値から逸脱しているものがありました。ひとつはCl。これはクロールという,血液中のイオンのひとつ。イオンはメックという単位で一般的に計測するようで,mEqと表記します。mはミリで,Eqというのは分子なり原子なりのかたまり,有体にいえば,粒子が何個というときに,その個数を意味すると考えてよいようです。クロールの検査は,クロールイオンの血液中の濃度の検査。血液1ℓ中の濃度を調べるようで,下限値が99mEq/ℓであるのに対し,結果は98mEq/ℓでした。僅か1mEq/ℓの相違ですが,これは上限値も109mEq/ℓで,正常範囲がそう広いわけではなく,異常といっていいのではないかと思います。ただ,クロームイオンはナトリウムイオンとの関係で意味を有するようで,ナトリウムイオンは下限値が136mEq/ℓであるのに対し,結果が137mEq/ℓと,こちらは正常値ではあるものの,やはり結果としては低めのもの。摂取している塩分によって左右される結果らしく,これでみるとこの時期は塩分の摂取が控えめであったということになるのでしょう。
 もうひとつ,これもやはり正常の下限値を下回っているものがありまして,LDLコレステロールでした。これは下限値が70㎎/㎗であるのに対して結果は66㎎/㎗。10月は78㎎/㎗であったので,ずいぶん下がってしまったことになります。これはいわゆる悪玉コレステロールですので,基準値をオーバーするよりはましですが,低いという状態が慢性的に続くのも,あまりよくないことのよう。僕の場合は10月には正常の範囲内でしたから,慢性的であるとはいえず,とくに心配はしていません。
 なお,これらの点については,U先生からもとくに話はありませんでした。
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サッポロビール盃マリーンカップ&沁みる感覚

2013-04-03 19:50:23 | 地方競馬
 新しい女王に近付くのはどの馬か。第17回マリーンカップ
 鞭を入れたエミーズパラダイスが正面ではハナに立ったのですが,並び掛けていったセンゲンコスモが向正面に入ると強引に外から交わして逃げることに。控えたエミーズパラダイスが2番手で,3番手にはメーデイア。内にレッドクラウディア,これをオーシャンフリートが追い掛けるという隊列になりました。前半の800mは47秒8で,これは超ハイペースです。
 センゲンコスモは3コーナーで一杯。エミーズパラダイスの外からメーデイアがこれを交わして先頭に立って直線に。そのまま追いすがる馬に並ばせず,3馬身の差をつけてメーデイアが快勝。直線はメーデイアの外を伸びたレッドクラウディアが2着。前半は中団から,向正面で追撃を開始したスティールパスがさらに2馬身差で3着。
 優勝したメーデイアは1月のTCK女王盃からの連勝で重賞2勝目。その前走が圧勝。ここは左回りと距離短縮が課題でしたが,横綱相撲で圧倒。どうやら今後のこの路線はこの馬が中心的存在として引っ張っていくということになりそうです。父はキングヘイロー。半姉に2006年の福島牝馬ステークスを勝ったロフティーエイム。馬名はギリシア神話に登場する王女の名。
 騎乗した浜中俊[すぐる]騎手,管理している笹田和秀調教師にはマリーンカップ初勝利。

 実はこのとき,新しいブリッジを架けた部分の中に,沁みる感覚がありました。治療する前ほど激しいものではなかったのですが,セメントで固め,また仮の歯を嵌めていた間には感じることがなかった痛みが出たのです。I先生は治療の最後に何か問題がないかという主旨のことを尋ねましたので,僕はこのことを訴えました。ただ,I先生の話ではそれは今だけのものであって,時間が経過すれば消えていく筈とのことでした。僕は実際に痛みを感じていましたからこの話は半信半疑であったのですが,I先生が言ったことは正しく,今では沁みるような感覚というのは一切ありません。
 これで今回の治療はすべて終了。ただ,新しいブリッジの装着に何か問題があってはいけないので,3週間ほど経過したらもう1度だけ来院してほしいとのことで,3週後に予約を入れなければなりませんでした。3週後の見通しというのが僕にはこの時点で完全には立っていませんでしたので,確実に通院することができる日ということで,3月1日の金曜日に予約を入れてもらいました。月をまたぐということはあまりしたくはありませんでしたが,これは仕方がないことでした。
 この週の金曜日,15日から3泊4日で妹はショートステイに。週末のショートステイというのはこれが2回目のことになります。日数が増す分だけ荷物が多くはなるのですが,作業所とショートステイ先との往復をするのが減る分だけ,妹にとってはこの方がいいのかもしれません。
 3泊ですから家に戻るのは18日の月曜日ということになるのですが,この日が僕の通院の日になっていました。この日は雨が降ったのですが,僕は雨の日に通院したという記憶がありませんので,これは初めてのことであったかもしれません。いつものように採尿と採血を済ませ,この日は診察の予約が14時半になっていましたので,外食のために小港まで出ました。
 この日の検査詳細情報には,前々回に行った健康診断の結果と同じ内容が示されていました。つまりこの日もより多くの検査を行ったということになります。おそらくU先生の手違いであったと思うのですが,詳しく検査してもらえるのは悪いことではないと思っています。
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将棋大賞&新しいブリッジ

2013-04-02 19:10:43 | 将棋トピック
 昨日,昨年度の将棋大賞が決定しました。
                         
 最優秀棋士賞は渡辺明竜王。竜王防衛,王将挑戦,奪取,棋王挑戦,奪取で三冠を達成。朝日杯将棋オープンNHK杯でふたつの棋戦も制していて,当然の受賞。MVPは初受賞となりました。
                              
 優秀棋士賞は羽生善治三冠。こちらは棋聖防衛,王位防衛,王座挑戦,奪取。A級順位戦で優勝して名人挑戦権獲得。銀河戦でも優勝しました。渡辺竜王と遜色ない成績で,こちらも当然の受賞でしょう。ずっとMVPだったこともあり,この部門は2006年度以来2回目。同時に特別賞にも選出され,こちらは1995年度以来の2回目。記録部門では最多対局賞が2011年度から2年連続11回目,最多勝利賞は2010年度,2011年度から3年連続で13回目。
 敢闘賞は中村太地六段。棋聖挑戦が評価されたもの。この年齢でのタイトル戦登場は確かに立派です。初受賞。記録部門では連勝賞も獲得。昨年度の勝率1位賞に続く記録部門での受賞です。
 新人賞は永瀬拓矢五段。加古川青流戦新人王戦で優勝ですから,この部門はこの人以外にありません。こちらも初受賞。記録部門の勝率1位賞にも輝きました。こちらは昨年度は連勝賞で同じように2年連続での記録部門受賞。
 最優秀女流棋士賞は里見香奈女流名人。女流王位奪取,女流王将防衛,倉敷藤花防衛,女流名人位防衛,マイナビ女子オープン挑戦。文句なし。昨年度は5敗しかしておらず,そのうち3敗は番勝負内ですから,実質は2敗しかしていないも同然です。2009年度,2010年度,2011年度も受賞していて,4年連続4回目。
 女流棋士賞は上田初美女王。女王防衛と女流名人位挑戦。女流最強戦優勝。実力的に里見名人に迫っている感もあり,明日からのマイナビは非常に楽しみです。初受賞。
 女流最多対局賞はLPSAの中井広恵女流六段でした。
 升田幸三賞は角交換四間飛車の藤井猛九段。1996年度に藤井システムで受賞していて2度目。この部門で2度の受賞は大いに称えられるべきものと思います。
 名局賞は王座戦の第四局。これは千日手局込みでしょう。名局賞特別賞に女流名人位戦第五局が選ばれました。女流の将棋が選出されるのは素晴らしいことだと思います。

 歯科検診であれこのときのような治療であれ,僕はもう何度もI歯科には通っています。その中でもこのときほど滞在したのは初めてでした。治療に要した時間は2時間弱。なお,ここで装着した仮の歯というのは,ブリッジの中の虫歯を治療した歯のことだけではありません。ブリッジを架けていた3本の歯のすべてです。それぞれに微調整を施しましたので,これほどの時間が必要になったものでしょう。帰宅したのは午後1時40分頃。この日の午後はまた本牧まで出向く必要がありましたが,それには支障は来しませんでした。
 翌2日の土曜日は妹の土曜出勤。この日はチョコレートを作りました。おそらくバレンタインデーに向けてということだったのでしょう。バレンタインデーも一応はキリスト教の行事であるとはいえ,施設はキリスト教系法人ですから,このような作業を行うのはむしろ自然である気もします。そして3日の日曜日はピアノレッスン。この日も午後1時からでした。
 さらに翌日の4日の月曜ですが,この日は妹は作業所を休みました。といっても具合が悪くなったわけではありません。こども医療センターの通院の日だったからです。この日は午後1時半の予約。僕はこの日は長者町に出ていて,午後3時半過ぎにはもう家に帰ってきたのですが,そのときにはすでにと妹は帰っていました。
 この週末,10日の日曜にはふたりは美容院に行っています。
 12日の火曜日にI歯科へ。歯科の通院は金曜に行くことが多かったのですが,ブリッジはこの週のうちには架けられることになっていて,なるべく早い方がよいということでしたので,僕の都合がついた火曜に予約しておいたもの。時間は午前9時でした。この日も午後は長者町に出向くことになっていましたので,僕としても早い方がよかったのです。
 まず嵌めておいた仮の歯を外し,それ以前に塗り固めたまま残っていた余分なセメントを除去。ここまでは歯科助手による作業で,そこからはI先生自身がブリッジを架けました。このときにも微調整が必要となりましたが,仮の歯のときほどには時間は掛かりませんでした。帰宅したのは10時15分くらいでしたから,概ね30分程度の滞在で済んだという計算になります。
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性的不能者&仮の歯

2013-04-01 18:59:52 | 歌・小説
 スメルジャコフとムイシュキンの僕の読解は既述の通りです。ところが亀山郁夫が『ドストエフスキー 共苦する力』の中で,ムイシュキンこそ性的不能者であると指摘していて,これは僕には軽い衝撃でした。
                         
 亀山によるとそれは『白痴』の冒頭に暗示されているとのこと。それで読み返してみたのですが,僕にはやっぱりそれとは読解できませんでした。
                         
 『白痴』の冒頭というのは,スイスからペテルブルグへ向う列車の中で,ムイシュキンが後の恋敵となるロゴージンと出会う場面です。ドストエフスキーの小説の特徴のひとつに会話の分量の多さがあり,このシーンでもほかの人物も交えつつ両者は長々と語り合います。その中でムイシュキンは,自分は病気のせいで女というものを知らないという主旨のことを告白するのですが,亀山が指摘しているのはおそらくこの部分のことでしょう。
 ムイシュキンが病気というのは癲癇のことです。この部分はその癲癇のせいで好かれないとも解釈できますし,性的に不能であるとも解釈できます。亀山は後者の読解を選択したのですが,仮にその読解が正しいとすると,次の事柄が浮上してきます。
 癲癇という病と,性的無垢の象徴としての子どもというのは,ドストエフスキーの神の似姿のふたつの要素を構成するというのが僕の考え方です。するとこの場合,癲癇であるということが性的に無垢であるということの原因を構成していることになります。つまり神の似姿を構成するふたつの要素が,ここでは分かちがたく結合しているということになるでしょう。
 もう一点,ムイシュキン公爵は神の似姿に最も近い人物としてドストエフスキーによって描かれているというのも僕の考え方です。そのとき,個人的なパーソナリティとしてムイシュキンが性的無垢な存在であるなら,彼は精神的な意味において神の似姿であるとしか考えられないことになります。しかし亀山が指摘しているように,性的不能者であるがゆえに性的に無垢な存在であるとするならば,ムイシュキンというのは人間としての肉体をまとった神の似姿であると理解することが可能になるでしょう。

 血液を抽出するための針の在庫が尽き,新しい注射器も使用するようになったのは,24日の木曜日の朝からでした。22日の就寝前から新しい測定器とセンサーを使用していたのですから,やはり在庫の個数のずれというのは僅かであったことになります。
 1月26日の土曜日は妹がガイドヘルパーを利用しました。この日は金沢区内にある地域ケアプラザまで出掛け,餃子の皮を使ったうどんを作って食べたそうです。ほかに味噌汁とリンゴの寒天ゼリーも食べることができたとのことで,妹にとってはよい外出であったのではないかと思います。翌27日の日曜日はピアノレッスンで,この日は午後1時からでした。
 1月29日の火曜日に,作業所での三者面談というのがありました。これも年に1度,大概はこれくらいの時期に行われているもの。場所は作業所ではなく,運営する施設の方。三者というのは妹と家族,僕の家の場合はと,作業所の担当の方です。このくらいの時期に行われるのは,この面談が次の年度に関する話し合いという主旨をもっているからです。つまりこの面談で,4月以降のことが決定されます。妹は現在は作業所でパンなどを作っていますが,この施設はほかにも作業の内容がありますから,変更される可能性はあることになります。ただし妹の場合はこの施設でお世話になってから一貫してパンを作る作業所に勤務していますし,これは今日からの新年度も継続することになりました。障害者にも作業についての向き不向きというのが当然ながらあるわけですが,妹の場合は現在の作業が向いているということなのでしょう。なお,この作業所には販売所も併設してありまして,妹は売り場に立つというケースもあります。僕が妹の作業という場合にはこうしたことのすべてを含んでいます。
 翌30日から2月1日まで,月をまたいで2泊3日のショートステイでした。そしてその2月1日の金曜日が,僕のI歯科への通院の日でした。この日も予約は午後11時半。この日は新しく架けるブリッジの準備のための型取り。まだ金属が少し残っていましたので,まずはそれをきれいに落とす作業から。2週間前に固めたセメントはある程度まで剥がしまして,その部分には仮の歯を装着しました。これがこの日の治療のすべてだったのですが,最後の仮の歯の装着は最終的な手直しというのがあり,時間を要しました。
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